第九話:嵐の前夜
レオンが「失踪」という言葉を使ったのは、夕食の席だった。
政務の話は食事中にしない、というのがレオンとの暗黙の約束だった。だから余計に、その言葉が引っかかった。
「帝国神殿の司祭が、先月3人」とレオンは言った。「いずれも辺境寄りの教区を担当していた者たちです。病気や転任の記録はない。ただ、いなくなった」
「捜索はどうなっているのです?」
「しています。ただ——」レオンは少し間を置いた。「3人とも、最後に目撃された場所が、帝都の南西区の同じ街区です」
マリンは杯を置いた。
南西区。先月、リベルが「見慣れない人の出入りがある」と言っていた区画だ。厨房での話し込みで拾ってきた情報で、その時はまだ確証がなかった。
「レオン様、その街区の建物の所有者は分かりますか?」
「調べさせています。ただ、何重にも名義が入れ替わっていて——」
「時間がかかるのですね?」
「そうです」
マリンは窓の外を見た。帝都の夜は灯りが少ない。南西区の方角は、特に暗かった。
翌朝、クロノスを呼んだ。
「南西区」と言っただけで、クロノスは頷いた。
「……知っている。昨夜から動いている」
「何か分かった?」
「まだ全部ではない」クロノスは影の中から続けた。「ただ、あの建物に出入りしている人間の中に、通商連合の使いが混じっている」
マリンは黙った。
「リベルが顔を割っている。今夜、中を見る」
「気をつけて」
「……心配する必要はない」
影が薄れていった。
◇◆◇◆◇
ドワーフの里は、山の腹の中にあった。
石と鉄と、溶鉱炉の熱気が混ざった空気。シズクは書類を抱えたまま、交渉の間への廊下を歩いた。隣でユリウスが歩いている。3日間、ほとんど眠っていない顔だった。
「ユリウス、顔色が悪いわ」
「問題ありません」
「問題あるようにしか見えないわよ」
「ならば交渉が終わってから倒れます」
シズクは何も言わなかった。この人に何を言っても無駄だと分かっていた。
通商連合が東方3港の封鎖を本格化させたのは、10日前だった。ウィンドランナーが確保した代替ルートは機能していたが、食糧品以外の物資——特にドワーフが供給する機械部品と、エルフが提供する魔力測定器の部材——が止まり始めていた。機械式水路の部品が届かなければ、辺境の整備が滞る。マナ測定の機材が届かなければ、アクア母様の研究が止まる。
シズクとユリウスがドワーフの里まで飛んだのは、連合の封鎖網の外側に直接取引のルートを作るためだった。
「アイラ族長は話せる人間だと思いますか?」
「戦士だが、ドワーフらしく数字にめっぽう強い」とユリウスは言った。「条件が論理的であれば動きます」
「感情で動かない人間、ということ、ね」
「ただし——」ユリウスは書類をめくった。「連合側も先手を打っています。族長への接触を試みた形跡が昨夜の情報で確認されています」
「連合が焦っている、ということ?」
「我々より先に動かれると困ると判断したのでしょう」
「先に動かせないわ」
「ええ。そのために3日かけてここまで来ました」
交渉の間の扉が見えた。
◇◆◇◆◇
アイラ・アイアンハンドは、想像通りの人間だった。
小柄だが、鎧越しに鍛え抜かれた体躯。ボルタとよく似た炎のような赤毛を三つ編みにして、背中に魔導砲を背負ったまま交渉の間に入ってきた。
「竜の国からのお客人とは」とアイラは言った。「ボルタ姉上の書簡がなければ、会わなかった」
「その節はお礼を申し上げます」とシズクは返した。
「礼はいらない。姉上の顔を立てただけだ」
アイラは椅子に座り、シズクとユリウスを交互に見た。それから、少しだけ目を細めた。値踏みではない。別の何かだった。
「……王妃殿。ソイル殿。神討伐の時に、王宮でお会いしたことがある。あの頃はまだ子供だった」
「覚えていてくださったんですか!?」とシズクは言った。
「忘れるわけがない。ヒカル王の娘たちだ」アイラは短く鼻を鳴らした。「話を聞こう。ただし、筋が通らなければその場で終わりだ」
「それで十分です」とユリウスが言った。
アイラの目が、ユリウスに止まった。
「3日くらい、眠っていないのか?」
「いいえ、まだ2日半です」
「……正直な奴だ」アイラは少し口角を上げた。「話せ」
3時間かかった。
技術協力の独占期間、部品供給の優先順位、封鎖網の外側に作る直接取引のルート。ユリウスが一つずつ数字を積み上げ、アイラが一つずつ返してくる。アイラは武将肌だったが、数字を読む目は父ジオ譲りだった。感情で動かず、筋だけを見る。
途中、アイラが一度だけ言った。
「通商連合の使いが先週、ここに来た」
「存じています」とユリウスは答えた。
「だが断った。連中の条件は筋が通っていなかった」アイラはユリウスを見た。「お前たちの条件が筋を通してくるなら、そちらを取る。それだけだ」
署名が終わった時、ユリウスの手が書類の端を掴んだまま止まった。
立っていられなかった。
シズクが気づくより先に、ソイルが動いた。壁際に控えていたソイルが音もなくユリウスの隣に来て、その体をゆっくりと受け止めた。廊下に出て、壁際に座らせて、ユリウスの頭を自分の膝の上に下ろした。
「終わったわよ」とソイルは静かに言った。「少し休んで」
ユリウスは何も言わなかった。目を閉じた。それだけだった。
アイラが廊下まで出てきた。2人を見て、それからシズクを見た。
「あの宰相、王宮に戻るまで持つか」
「持ちます。いつもそうなので」
アイラはしばらく黙って、ソイルの膝で眠りかけているユリウスを見ていた。それから、ぽつりと言った。
「ボルタ姉上も、昔からそういう働き方をする。止めても無駄だと学んだ」
シズクは少し笑った。
アイラが部屋を手配するよう部下に指示してから、シズクに向き直った。
「今夜はここで休め。明日の出立で十分間に合う」それから、少し声の温度が変わった。「——大きくなったな、王妃殿。ソイル殿も」
シズクは答えなかった。でも、頷いた。
「ヒカル王によろしく伝えてくれ」とアイラは言った。「あの人が作った世界を、ちゃんと次の世代が継いでいると——そう伝えてくれ」
アイラは踵を返した。廊下に大きな足音が響いて、遠ざかっていった。
シズクは廊下の窓から外を見た。山の夜が来ていた。星が出ていた。
ドワーフとの協定は結べた。連合の封鎖を外側から崩す道筋が、一本できた。でも、これだけではない、という感覚がずっとあった。通商連合が動く。帝国の貴族派が動く。そしてマリンが去年から報告している、宮廷内の不穏な気配——それらが別々の動きではない気がした。
でも、繋げる情報がまだ足りなかった。
◇◆◇◆◇
夜、マリンから通信が来た。
シズクはドワーフの里の客室で、一人で筆を受け取った。
——シズク、クロノスから報告があった。
シズクは筆を取った。
——こっちも今日、大きな動きがあった。先に言って。
少し間があった。
——南西区の建物、中を見てきた。通商連合の使いと、帝国の旧教会系の人間が会合を開いてた。クロノスが書類を一部回収した。「竜の治世の終わり」という言葉が繰り返し出てくる文書で——それと、辺境への働きかけの記録も。
シズクは手を止めた。
——辺境への働きかけ?
——辺境の領主に対して、竜の国との同盟を破棄するよう誘導している形跡。煽り方が、魔力減退を「竜の祟り」と結びつけた文章で——
シズクは息をついた。
——それは新星教団の言い回しだわ。ほら、最近、勢力を拡大しているっていう新興宗教の。
——そう。クロノスもそう言ってた。帝国内の旧教会系の一部が、新星教団と繋がっている可能性がある。
しばらく、どちらも何も書かなかった。
シズクは窓の外の山の稜線を見た。今日、ドワーフの里で連合の使いが先回りしていた。マリンの帝都では旧教会と連合が会合を開いている。辺境では領主への誘導工作。
別々の動きが、一本の線で繋がっていた。
——マリン。
——うん。
——これは一つの動きだわ。通商連合、帝国の貴族派、新星教団。それぞれが別の場所で動いているように見えて、全部繋がってるのよ。
——私もそう思う。クロノスも同じことを言ってた。「背後に一つの意図がある」って。
シズクはしばらく黙っていた。頭の中で地図を広げた。竜の国、帝国、辺境。三つの方向から同時に圧力がかかっている。
——シズク。
——なに?
——怖い?
シズクは少し考えた。
——怖い。でも、今夜分かったことがある。
——何が?
——全部繋がっているなら、一つを崩せば連鎖する。バラバラに見えていた時より、むしろ対処しやすい。
少し間があった。
——さすがシズク。私には思いつかなかった。
——あなたがクロノスを動かして書類を回収してくれなければ繋がらなかった。どっちが欠けてもだめだった。
また沈黙があった。今度は少し長かった。
——明日、正式に報告書をまとめる。シリウスとユリウスにも共有する。
——そうそう。ユリウスは今夜倒れかけた。
——え!?
——大丈夫。ソイル姉様が受け止めた。明日には動ける。
——……無理させないでよ。
——それはユリウスに言って。
マリンの返事が少し遅れた。それから。
——ねえ、シズク。
——なに?
——これ、本格的にやばいよね。
シズクは筆を持ったまま、少しの間動かなかった。
——やばい。でも、私たちは今日も一個崩した。マリンは半年で帝都に根を張った。ライオスは辺境と話ができた。ユリウスはドワーフと協定を結んだ。
——それを全部つなげれば。
——嵐に備えられる。
筆の先が、少しだけ強く光った気がした。
——おやすみ、マリン。
——おやすみ、シズク。明日も頑張ろう。
光が消えた。
シズクは筆を置いて、窓の外を見た。山の夜は深く、星が多かった。
嵐が来る。来ることは、もう分かった。でも今夜、二国の情報が初めて一本に繋がった。
それで十分だ、と思った。今夜のところは。
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