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第十話:風の便り

 リオが王宮の執務室の窓から入ってきたのは、昼過ぎのことだった。


 窓から、というのが重要だった。正門を使わないのはリオの流儀で、「門を通ると記録が残る」というのが理由だった。それが正しい判断かどうかはともかく、シリウスが毎回頭を抱えているのでおそらく問題はある。


「シズク、久しぶり」

「ちょっと窓から入らないで!」

「でも早いから」


 リオは書類の束を机の上に放った。旅装のまま、埃と風の匂いがした。天狗族の里の紋章入りの外套の下に、各地を飛び回るための軽装。この人はいつもこういう格好だとシズクは思った。家名も肩書きも持ちながら、どこにいても旅人に見える。


「グラウンドから預かってきた。本人は今、南の調査地点から戻れないって」

「どのくらいかかるの?」


「う~ん。あと10日か2週間。面白いものを掘り当てたらしくて、離れたくないんだって」とリオは言った。「飯が美味い村の近くで調査してるから余計に動かないと思う」


「……はぁ。グラウンドらしいわ」

「報告書だけはちゃんと送ってきたから、まあいいか、って」


 シズクは書類の束を手に取りながら、ふと言った。


「それはそうと、リオはいつ天狗の里に戻るの?」

「用が済んだら。2、3日かな」

「フウガは? 最近リオが一人で飛び回っているのはどういうこと?」


 リオの表情が、少しだけ緩んだ。


「ハヤテが生まれたばかりで——フウガが里を離れられないんだ」

「ハヤテ?」

「俺の息子。天狗族の次の族長候補、ということになる」


 シズクは少し黙った。それから、少し意地悪く言った。


「リオが飛び回っているのは、ハヤテの世話から逃げているから?」

「違う! 断じて違うぞ! 大陸の情報収集は俺にしかできない仕事だから!」

「本当かな~。フウガに怒られない?」

「……少し怒られた」


 シズクは声を立てて笑った。久しぶりに声に出して笑った気がした。


「ハヤテのこと、マリンに伝えていい?」


「もう知ってるんじゃないかな」とリオは言った。「フウガが天狗の里から食べ物を送ったって——マリンに。族長として皇妃へのご挨拶だって。リベルへの手紙も一緒に入れたらしい」


「フウガが自分から!?」


「子供が生まれると変わるんだよ、人って」リオは少し遠い目をした。「ハヤテに竜の国の話をしてやりたいって、フウガが言ってた。自分が神討伐の時に一緒に飛んだ仲間たちの話を」


 シズクはそれを聞いて、少し黙った。


 神討伐の時。あの頃はまだ子供で、父上や六龍姫たちの背中を見ていることしかできなかった。でも、戦いが終わった後の宴の賑やかさは覚えている。レヴィア母様が笑い、セフィラ母様が走り回り、フウガとリベルが空で騒いでいて、グラウンドがどこかの里の料理を食べながらうとうとしていた。あの頃は全員が同じ場所にいた。


「……みんなで、わいわいやっていたのが懐かしいわ」


 シズクが言葉にするつもりのなかったことが、口から出た。「今は、みんなバラバラで、それぞれの場所で戦っていて。マリンは帝都にいて、ライオスは辺境に行って、グラウンドは南の調査地点で、リベルは帝都の厨房にいる。それが正しいことだと分かっているけど——」


 言葉が止まった。


 リオはしばらく黙っていた。窓枠に腰かけたまま、空を見た。


「父上も同じだったんじゃないかな」とリオは言った。「六龍姫も六天将も、帝国も辺境もドワーフもエルフも、みんなバラバラのところから動いて、一つの嵐を乗り越えた。一か所に集まって戦ったわけじゃない。それぞれが自分のいる場所で踏ん張ったから、繋がった」


 シズクは答えなかった。


「シズクたちも同じだよ。バラバラに見えるけど、繋がってる。それが竜の王家のやり方だろ——父上から受け継いだ」

「……リオは、いつからそんな正論を言うようになったの」


「フウガに育てられたから」とリオはあっさり言った。「あいつ、厳しいんだよ。族長だから」


 シズクはまた笑った。今度は少し違う笑い方だった。弱音を吐いたことへの照れと、それを受け止めてもらった安堵が混じった笑い方だった。


「他に何か」とシズクは言った。気持ちを切り替えるように。


「辺境の様子と、帝国の方から風で拾ってきた話が少し……」

「聞かせて!」


 シズクは書類の束を手に取り直した。グラウンドの報告書。表紙に「地脈調査報告・第三次」と書いてある。分厚い。内容は正確だが、食事の記録が3割を占めることがある。



 ◇◆◇◆◇



 グラウンドの報告書を読み始めたのは、夕方になってからだった。


 食事の記録を飛ばすと、本体は思ったより薄かった。でも密度があった。


 グラウンドは過去3年間、大陸の各地を歩き回り、地脈の状態を記録し続けていた。北の山脈から南の海岸線まで、東の砂漠から西の森林地帯まで。測定点は200を超えていた。


 シズクは最初のページを読んで、手を止めた。


 もう一度、読んだ。


 それからアクア母様の測定記録を引き出しから出してきて、並べた。


「……合ってる、合ってるわ!」


 声に出していた。


 グラウンドのデータが示していたのは、マナが「消えている」のではなく「動いている」ということだった。北の山脈沿いの測定点ではマナ密度が下がっている。でも南東の海岸線では逆に上がっている。砂漠の地下深くで、地脈の流れが変わっている痕跡がある。


 消失ではない。再編だ。


 地球儀を回すように、マナも動いている——グラウンドはそう書いていた。直後に「この地域の鉱石料理が絶品で」という一文が続いていたが、今は関係ない。


 アクア母様が「底を打ってから再び低下している」と感じたのは、王都のマナ密度を見ていたからだ。王都の地脈が、別の場所へと流れ出している。全体として消えているのではなく、偏在が起きている。


 シズクは地図を広げた。グラウンドの測定点に、アクア母様の記録を重ねていく。


 偏在のパターンが、見えてきた。



 ◇◆◇◆◇



 夜になっても、リオがまだ王宮にいた。


 夕食を食べて、「もう1泊していいか」と言って、今は中庭で空を見ている。シズクが外に出ると、リオは振り返らずに言った。


「グラウンドの報告、どうだった?」


「消失じゃなかった」とシズクは言った。「地脈が動いている。マナごと」


「そっか」リオは空を見たまま言った。「じゃあ、どこに行ってるか分かれば、戻ってくる可能性もある?」


「分からない。まだ仮説の段階だけど」

「でも希望はある?」

「……ある」


 リオは少し黙った。


「マリンに伝えていい? あの子、帝都で一人で頑張ってるから。希望があるって分かれば、シズクからも通信できるだろうし」


「うん。伝えて」とシズクは言った。「ただし、まだ確定ではないと一緒に」


「分かった」リオは翼をわずかに広げた。「ちなみにリベルから伝言があった。『シズク姉様、クロノスお兄ちゃんが最近ちょっと笑うようになった、報告します』って」


 シズクは少し黙った。


「……それは報告じゃなくてただの惚気では?」


「リベルにとっては重大ニュースなんでしょ」リオは笑った。「あと、明日の朝一番に飛ぶ。ゼファー様とウィンドランナーへの伝言があれば引き受ける」


 シズクは顔を上げた。


「流通ルートと地脈の偏在を照らし合わせたい。マナが集まっている地域と、物資の動きに相関があるかもしれない」


 リオはシズクを見た。目が少し細くなった。


「もしかして、通商連合が動いている場所と一致する?」

「これもまだ仮説だけど、ね」


「——面白いな」リオは翼を広げた。「伝令は任せてくれ」


「ありがとう」

「礼はいらない。俺もこの国の風だから」


 リオが空へ舞った。


 中庭に一人残って、シズクは地図を見た。偏在のパターン。地脈の流れ。通商連合が動いている地域。


 全部が繋がりかけていた。繋がったその先に何があるのか、まだ見えない。でも、見えかけていた。


 アクア母様に報告書を送ろう、とシズクは思った。長年測定を続けてきた人に、この仮説を見てもらう必要がある。


 中庭の噴水が、月光の中で静かに水を吐いていた。弧が少し低い。でも、今夜はそれがそれほど不安に見えなかった。


 消えているのではなく、動いている。


 それだけで、だいぶ違った。


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