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第十一話:白い絶壁

 ——竜の王都、王宮執務室——


 最初の報が入ったのは、夜明け前だった。


 辺境東部の街道で、商隊が襲われた。暴徒の数は50を超え、「竜の治世を終わらせよ」という文句を叫んでいた。


 シズクが執務室で報告書を読み終わる前に、次の報が来た。


 王都の南市場で騒乱。宗教的な煽動ビラが撒かれ、群衆が商会の建物に石を投げている。



 その5分後に、また来た。


 帝国との国境近くの宿場町で、役所が焼き討ちにされた。


 その後も報告は止まらなかった。北部の港町、西の山道の関所、中部の穀物集積地——夜明けから2時間で、シズクの机の上の報告書は14枚を超えた。シズクは1枚ずつ地図の上に対応する点を打っていった。


「同時だわ」とシズクは言った。


「はい」シリウスが地図の前に立っていた。「現時点で確認できているのは14か所。地方の駐留兵だけでは対応が追いつかない規模です」


 シズクは地図を見た。点が多すぎる。でもバラバラではない。


「この配置——王都への補給路を囲んでいるのよ」


「そう思います」シリウスは指で点をなぞった。「街道と食糧の集積地を同時に叩いている。王都を孤立させる動線です」


 シズクは地図から目を上げた。


「ライオスとノアが辺境にいるタイミングを、狙った」


「おそらく」とシリウスは言った。「私もユリウスとソイルと一緒に、ドワーフの里から昨日戻ったばかりで、倒れているユリウスは、まだ動ける状態ではない。手が足りない瞬間を見計らっている」


 シズクは何も言わなかった。言葉にする前に、腹の底で何かが固くなった。


 こちらの動きを、見られている。情報が漏れているのか、それとも監視されているのか。どちらにしても——敵は今、こちらより先を行っている。


「軍を動かすわ」


「それしかないでしょう。中央軍から精鋭を各拠点に分散展開します。速攻で鎮める。長引かせれば更に広がります」シリウスは一拍置いた。「王都南市場と北部港町は——新六天将を充てます。幸いにもフェンリアとソルニアが今日、王都にいます」


「ライオスとノアの合流は?」

「まだ数時間かかります。帰還中に報告を受けているはずですが」


 シズクは頷いた。


 父上はまだ王都にいる。アクア母様も、レヴィア様も。フレアやシエルも近くにいる。頼もうと思えば頼める。


 でも——それをしてはいけない。


「私は司令室から動かない」とシズクは言った。「全体の把握を続ける。父上たちは動かさないで」


 シリウスが少し目を細めた。


「……よろしいのですか。ヒカル様やレヴィア様が動けば、話が早いのですが……」


「だめ」とシズクは言った。


 シリウスは黙った。


「この国の王妃は私よ。ライオスの妻は私。そして——長年この国の参謀を務めてきたアクア母様の娘も、私」シズクは地図を見たまま言った。「母様が積み上げてきたものを、ここで父上に頼って潰すわけにはいかない。私たちの代で、私たちが何とかする」


 声が思ったより静かに出た。静かだったが、揺れていなかった。


 シリウスはしばらく黙っていた。それから、短く頷いた。


「分かりました、王妃様」


 この男はこういう時、余計なことを言わない。それがシリウスのいいところだとシズクは思った。


「では、辺境東部は私が直接行きます」とシリウスは言った。「あそこが一番規模が大きい。全力で飛べば数時間で到達できます」


 外套を掴んで立ち上がった。自ら出陣する顔だった。


 シリウスが廊下に向かい、素早く部下に命令を下した。





 南市場の鎮圧報告が戻ってきたのは、2時間後だった。


 フェンリアの小隊が広場に展開した瞬間、暴徒の足が止まった。魔法を使ったわけでも、武器を抜いたわけでもない。ただ、立った。ただ、前に出た。それだけで、広場を埋めていた数百の群衆が後退した。1時間もかからなかった。


 続いて北部港町。ソルニアの小隊が10分で制圧した。


 シズクは報告を聞きながら、地図の点を消していった。11か所に縮まった。10か所。


 でも同時に——新たな報告が積まれてくる。


 まだ終わっていない。


 そしてシズクの手が、一枚の報告書の前で止まった。


 辺境東部の追加報告だった。暴徒の中に、見慣れない装置を持つ者がいた。竜族の兵が近づくと、魔力が急激に薄くなったと。


 シズクはその一文を、もう一度読んだ。




 ◇◆◇◆◇



 ——グランテェリア帝国、皇宮——


 同じ朝のことだった。


 ミレーユが王宮の東門の警備が通常の倍になっているのに気づいたのは、夜明けの見回りの時だ。倍というのは過剰だ。過剰な警備は、内側に知らせたくない何かがあることを意味する。


「マリン様」


「うん、気づいてる」とマリンは言った。「レオン様から先ほど」


 帝国内の4つの都市で、同日未明に宗教的な集会が強制的に開かれた。煽動演説が行われ、一部が暴徒化した。参加者の中に通商連合の商人と思われる人間が複数混じっていた。


「この暴動は、竜の国と同じタイミングで起こっているようです」とミレーユは言った。


「連動してるのね」マリンは静かだった。「クロノスはどこ?」


「もう動いていらっしゃいますわ」


 廊下の外で、かすかに影が動いた。


 その時、東翼の廊下の方から声が上がった。


「マリン様、私が見てまいります」




 ミレーユが東翼に向かうと、廊下の突き当たりに人だかりができていた。


 煽動ビラを持った男が、帝国の文官たちを壁際に追い詰めていた。単独だったが、目が据わっていた。ビラには「竜の治世は終わった、魔力の枯渇が証明している」という文言が踊っていた。


 ミレーユは状況を一瞬で読んだ。単独犯、武装なし、ただし騒動を起こすことが目的——鎮圧より情報が優先だ。


「下がってください」とミレーユは文官たちに言った。


 男がミレーユを見た。メイドの格好を見て、舐めた目をした。


「お前は何だ?」


「マリン皇妃の筆頭メイドです」とミレーユは言った。「そのビラ、どこで受け取りましたか。出所を教えていただければ、それだけで結構です」


 男が笑った。「教えると思うか?」


「教えていただく方が、貴方にとって得です」

「どういう意味だ!?」


「今この廊下には、影が3つあります」とミレーユは言った。「貴方の影と、私の影と、もう一つ。そのもう一つは、今貴方の後ろにいます」


 男が振り返った。


 影の中からクロノスが現れた。音もなく、ただそこにいた。


 男は声も出なかった。






 尋問は短かった。


 ビラの出所は、帝都南西区の旧倉庫だった。クロノスがすでに把握している場所だった。男は金で雇われた下請けで、黒幕の顔は知らなかった。


 ミレーユはその情報をまとめて、マリンに渡した。






 夕方になって、竜の王都からの通信が入った。


 マリンが受け取り、内容を読んだ。その表情が変わった。


「14か所のうち、11か所は鎮圧できた。でも3か所はまだ続いてる。それと——辺境東部で、魔力吸引器を持った暴徒が出たって」

「魔力吸引器ですか!?」

「ええ。竜族が近づくと魔力が薄くなる装置。複数の現場で確認されてる。どうやら帝国内にも出回り始めてるみたい……」


 ミレーユは黙った。単なる煽動ではない。竜族の力を物理的に封じる道具が、すでに各地に広がっている。


「帝国側でも同じものが出ていないか、至急確認します」とミレーユは言った。


「頼むわ」とマリンは言った。「クロノスにも伝えて」







 ——竜の王都、王宮執務室——


 深夜、シリウスからの報告書が届いた。


 フェンリアとソルニアが担当した2か所は、いずれも2時間以内に鎮圧。残りの拠点も部隊が対処中で、明朝までには収まる見込み。ライオスとノアも、まもなく王都に戻る。


 シズクは報告書を読み終えて、机の上に置いた。


 それからもう一枚。辺境東部の現場から回収された装置の報告。フェンリアが取り上げた金属の筒が、書類と一緒に届いていた。


 シズクは手に取った。軽い。粗い造りだった。


 ドワーフの技術ではない。もっと粗い。おそらく試作品か旧式のものだ。本格的なものが出回れば——竜族の魔法が、近接距離で封じられる。


 今日の14か所のうち、7か所で使われた。半数だ。無作為ではない。配置に意図がある。


 扉の外に、気配があった。


「リリア?」とシズクは言った。


 扉が静かに開いた。リリアが入ってきた。深夜でも姿勢が乱れていない。長年の習慣だった。


「まだ起きておられましたか?」

「貴方こそ」

「王宮の戸締まりと夜間警備の確認がございましたので」


 シズクはリリアを見た。それだけではないだろう、と思った。この人は今夜、ずっとこの近くにいた。昔からそうだった。シズクが子供の頃、夜中に眠れなくて部屋を出ると、廊下にリリアがいた。何も言わずに、ただそこにいた。


「ミレーユは?」とシズクは言った。


「及第点ですね」とリリアは言った。


 それだけだった。褒めではない。ただの評価だった。でもリリアが育てた子を「及第点」と言う時の重さを、シズクは知っていた。リリアにとってミレーユも、長年手をかけてきた子供の一人だ。その子に「及第点」と言う。それがどれだけのことか。


「私は……」とシズクは言った。「今日の判断は正しかったと思いますか。父上たちを動かさなかった判断は……」


 リリアはしばらく黙っていた。


「お聞きになるということは、ご自身ではもう答えが出ているのではないですか?」


 シズクは何も言わなかった。


「ただ」とリリアは続けた。声が、少しだけ変わった。王室メイド長官の声ではなく、もう少し古い声だった。「——よく踏ん張りました」


 シズクは答えなかった。答えなかったが、少しだけ息をついた。


「今日の暴徒の中に、戦い慣れた動きをする者が混じっていたと報告が上がっています」とリリアは続けた。声が元に戻っていた。「煽られた民衆ではなく、訓練された人間です。民衆を盾にして、その中に実戦要員を紛れ込ませている。次はその数が増えると見た方がいい」


「核がいる、ということ?」

「はい。シリウス総司令にも今夜中に伝えてあります」


 リリアが扉に向かった。


「リリア」とシズクは言った。


 リリアが振り返った。


「今日もありがとう」


 リリアは少し間を置いた。


「お礼はいりません」とリリアは言った。「これが私たちの仕事ですから」


 それから、ほんの少しだけ声が和らいだ。


「ライオス様がお戻りになったら、ちゃんと休んでください」


 扉が閉まった。


 シズクは机の上の金属の筒と、地図の上の残る3点を見た。


 今日は鎮圧できた。でも吸引器は7か所で使われた。民衆の中に訓練された人間が混じっている。次は倍になるかもしれない。


 そしてライオスとノアがまだ帰っていない。


 通信の筆を取った。ライオスに、今夜中に知らせなければならない。


 本格的な嵐は、まだ来ていない。



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