第十二話:絆の限界
夜明け前に、ライオスから魔力通信が届いた。
内容は短かった。辺境東部の鎮圧を終えて帰還中。ただし——吸引器を持つ暴徒の別部隊と交戦中。精鋭部隊と共にいるが、竜化が阻害されている。
シズクは通信を読み終えた瞬間に立ち上がっていた。
場所は分かった。帰還ルートの中間地点だ。馬で急げば、2時間かからない。
執務室を出る前にシリウスを呼んだ。
シリウスの顔が、少しだけ引きつった。
「……押し付けるんですか?」
「せめて、お願いされた、と言ってください」とシズクは言った。「貴方しかいない。全体の指揮は頼みますわ」
「私は辺境から帰ってきたばかりで——」
「ユリウスはまだ本調子じゃない。ライオスは現場にいる。私は行く。あ、な、た、しかいないの! ね、シリウス兄さま!」
シリウスは少し黙った。それから天井を見て、静かに息をついた。
「分かりました。行ってください」
「フェンリアとソルニアを連れていくわね!」
「2人でいいんですか?」
「ふふ、3人で十分よ」
シズクはすでに外套を手にしていた。
シリウスは、なんだかんだ言っても、この人はあのアクア様の娘なんだ、と再認識したのだった。
◇◆◇◆◇
辺境東部の街道に近づいた時、空気が変わった。
馬を走らせながら、シズクはその変化を皮膚で感じた。大気中のマナが薄い。いつもより薄いのではなく、意図的に薄くされている感覚だった。まるで空気から何かが抜き取られているように、魔力の通り道が詰まっている。
「吸引器の効果です」とフェンリアが言った。馬上で、すでに戦闘態勢に入っていた。「昨日の現場より密度が高い。数が増えてます」
「竜化は無理ね」とシズクは言った。「でも氷は使える」
シズクは手綱を引いた。馬が止まった。
眼下に、戦場が見えた。
ライオスの精鋭部隊が、暴徒の包囲の中で戦っていた。数は昨日の報告より多い。ライオスは炎の剣を生成しようとして、できていない。何度も試みている。そのたびに炎が小さくなって消える。それでも大剣を素手で振るって、前に出ている。ノアは弓を使っていた。炎の弾丸ではなく、ただの矢だった。
2人とも、戦えている。でも削られている。
シズクは深く息を吸った。
マナが薄くても、水は空気中にある。気温を下げれば、水分は凍る。それだけあれば十分だ。
「下がって」とシズクはフェンリアとソルニアに言った。
2人が左右に開いた。
シズクは両手を地面に向けた。
一瞬、静寂があった。
それから——戦場の地面が、端から順番に白くなっていった。音もなく、静かに、でも確実に。霜が走り、土が凍り、暴徒たちの足元が滑り始めた。包囲の外側から内側へ、氷の壁が縮まっていく。暴徒たちが声を上げ、足を滑らせ、隊列が崩れた。
ライオスが顔を上げた。
氷の向こうに、シズクがいた。
◇◆◇◆◇
「来たのか!?」とライオスは言った。
「来たわよ!」とシズクは言った。
フェンリアとソルニアが崩れた包囲に入り込み、ライオスの精鋭部隊と連携して残った暴徒を素早く制圧していく。10分もかからなかった。
戦場が静まった。
ライオスは剣を下げた。手が少し震えていた。竜化を何度も試みた後の消耗だった。
「吸引器、今日は11個確認した」とライオスは言った。「全部壊した。でも形が昨日より整っている。量産が始まってる」
「シズク」
「なに?」
「通信より早く来たよな?」
「そうね」
「なんでだよ?」
シズクは少し間を置いた。
「魔道通信より早く会いに来たかったから」
ライオスが固まった。
戦場の真ん中で、汗と埃にまみれた顔のまま、固まった。
ノアが少し離れた場所から、にやにやしていた。
フェンリアが制圧を終えた手を腰に当てながら、遠慮なく言った。
「王妃様、相変わらずですね」
「フェンリア!?」
「子供の頃から変わってない。ライオス様が転んで泣いてる時も、誰より先に駆けてきてたじゃないですか」
「そ、それは今、関係ないでしょ!!」
「大いに関係あります」とソルニアが穏やかに言った。目が笑っていた。「でも、ライオス様も、昔から王妃様の前では素直になりますよね」
「俺は素直なわけじゃ——」
「なってますよ」とフェンリアはあっさり言った。「リリア長官もそう言ってます」
「リリアが?」
「言ってません。聞いたことありません!」とシズクは言った。
「言ってますよ」とフェンリアは言った。「『ライオス様はシズク様の前では素直になる、それだけで十分』って」
ライオスが何か言おうとして、やめた。シズクも何か言おうとして、やめた。
ノアが笑いをかみ殺しながら歩み寄ってきた。
「で、シリウスは?」とノアは言った。「私の旦那のシリウスは?」
「王都で全体指揮をお願いしてきたの」
「辺境から帰ってきたばかりなのに?」とノアは言った。「ご機嫌とり、ちゃんとしてあげてくださいね。あの人、不満を口に出さないから余計こたえるんです」
「秘訣を教えてもらえる?」
「好物の菓子を差し入れて、『貴方しかいない』と言えば大体機嫌が直ります」ノアはさらりと言った。「あとは、任せた仕事は最後まで任せること。途中で口出しするのが一番嫌いなので」
「……それはシズクへの嫌みか」とライオスが言った。
「事実を言っただけです」とノアは言った。「兄様こそ、シズク姉が来てくれてよかったですね。ちゃんと夫婦してるじゃないですか」
「当たり前だ」
「私だってシリウスのこと愛してますからね」とノアは言った。「兄様ほどじゃないかもだけど」
ライオスが固まった。今度は別の意味で固まった。
「……それは、どういう意味だ?」
「さぁ、どういう意味でしょう?」
「ノア!!」
「さあ」とノアはにこにこしながら言った。「帰りましょう、兄様。きっと、絶対に、シリウスが疲れた顔で待ってます」
フェンリアとソルニアが顔を見合わせた。何も言わなかった。何も言わないのが、2人なりの気遣いだった。
「怪我は?」とシズクはライオスに聞いた。気持ちを切り替えるように。
「ない」
「本当に?」
「本当だって」
シズクはライオスの手を取った。震えが残っていた。竜化を何度も試みて、そのたびに遮断された後の消耗だ。
「竜化できなかった」とライオスは静かに言った。「何度やっても、途中で消えた。力が出ない感覚が——俺は、父上みたいにはなれないのか」
シズクは少し考えた。
「そもそも父上は竜化なんてできないわよ」
ライオスが顔を上げた。
「人間だから。でも知略と仲間の力で、誰よりも強く戦ってきた」シズクは続けた。「今日、竜化できなくても戦えた。それがライオスの今日の答えよ。父上と同じやり方じゃなくていい。貴方のやり方を見つければいい」
ライオスは黙った。
「次が来るわ」とノアが空を見上げながら言った。「今日より多い吸引器を持って、今日より多い人数で」
「分かってる」とシズクは言った。
シズクは壊れた吸引器の残骸を見た。量産されている。配布されている。次の戦場では、もっと密度が高くなる。竜化が完全に封じられた状態で、どう戦うか。
答えはまだ、出ていなかった。
でも——何かある気がした。個人の力ではなく、もっと別の何かが。
3人で、馬に向かって歩き出した。フェンリアとソルニア、そして精鋭部隊がその後ろについた。
空は夕暮れに差し掛かっていた。
ライオスがシズクの隣を歩きながら、小声で言った。
「……本当に、通信より早く来たんだな?」
「来たわよ、悪い?」
「なぜ?」
「言ったでしょう」
「……もう1回言え」
シズクは少し間を置いた。
「早く会いたかったから」
ライオスは何も言わなかった。でも、震えていた手が、シズクの手を握り返した。
ノアが前を歩きながら、しっかり聞こえているのに聞こえないふりをしていた。
夕暮れの辺境を、足音が並んで響いた。
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