第十三話:宣戦布告
——グランツェリア帝国、皇宮——
謁見の間に異変が起きたのは、朝の公務が始まって間もない頃だった。
黒い外套の男が正門前で叫び続け、衛兵が追い払おうとしても動かなかった。書状を高く掲げ、宗教的な文言を繰り返していた。レオナルド皇帝の判断は早かった。
「連れてこい。逃がすな」
男は両腕を掴まれ、引きずられるようにして謁見の間に現れた。
それでも笑っていた。
床に膝をつかされても、笑顔が崩れなかった。
マリンはその目を見た瞬間、背筋が冷えた。怒りでも恐怖でもない。自分が正しいことを確信しきっている人間の目だ。何を言っても届かない種類の目だった。
「皇帝陛下に申し上げる」と男は言った。礼をとる気配はなかった。「新星教団は、竜の治世の終わりを宣言する。竜の呼び子どもに告げよ——マナの枯渇は竜の罪だ。世界はもはや竜を必要としない——」
「黙れ……」
レオナルドの声は低かった。玉座からゆっくりと立ち上がり、男を見下ろした。側近が書状を取り上げ皇帝に渡した。レオナルドは一読した。それから、折り畳んで静かに返した。
「この男を牢に入れろ。だが、傷つけるな。丁重に扱え」
「陛下——」
「丁重に、と言った」レオナルドはもう一度言った。「この男が何者で、誰から命令を受けているか。それを調べる必要がある」
衛兵が男を退場させようとした。男は抵抗しなかった。連れ去られながら、振り返ってマリンを見た。
「竜の呼び子よ。貴様の時代は終わるのだ!!!」
扉が閉まった。謁見の間に、重い沈黙が落ちた。
マリンは膝の上で手を重ねた。震えないように、力を入れていた。
「顔を上げなさい」とイゾルデが囁いた。彼女は、いつの間にか隣に立っていた。「今、あの場にいる全員が貴女を見ているわ」
マリンは顔を上げた。謁見の間を見渡した。品定めの目も、動揺を楽しむ目も——心配している目も、あった。
「余はグランツェリア帝国の皇帝として、即、宣戦布告を受け入れない」とレオナルドは謁見の間全体に向かって言った。「竜の国との盟約は有効だ。帝国はいかなる脅しにも屈しない。緊急評議を招集する」
貴族たちがざわめいた。
イゾルデがマリンの手をそっと離した。「よくやった。顔色一つ変えなかった」
「変えてました……」
「端から見れば変えていなかったわ」とイゾルデは静かに微笑んだ。「それで十分よ」
ミレーユがすでに書状の写しを手に持っていた。「おそらく同時に竜の国にも届いています」と静かに言った。「今頃、シズク王妃のもとにも」
◇◆◇◆◇
評議の休憩中、マリンは廊下の影に向かって言った。
「クロノス」
「……ここにいる」
「帝国内の神殿の状況を教えて」
「昨夜から南の教区に武装した人間が集まっている。アルテミスの神殿に向かっている可能性がある」
マリンは通信の筆を取った。
——シズク。帝国内の神殿が動いている。
ついで、リオに——
返事が来る前に、リオからの通信が割り込んだ。
——マリン。俺、今アルテミスの神殿の上空にいる。下が変だ、人が集まってる、武装してる——
——リオ、降りちゃだめ。様子だけ見て——
返事が来なかった。
リオは降りた。
いや、神殿に降りようとしたができなかった。
彼は、天狗族の戦士たちを引き連れて門に向かったが、結界が張られていた。何度試みても弾き返された。神殿の外壁に沿って、目に見えない壁があった。術者が中にいる。
上空に戻った時、神殿の屋根の上に白い祈り衣が見えた。アルテミスだった。人々を庇うように前に出て、教団の兵たちと向き合っていた。17歳の末妹が、1人で立っていた。
リオは何度も結界に体当たりした。弾かれるたびに叫んだ。
でも届かなかった。
アルテミスが連れ去られるのを、リオは空から見ているしかなかった。
リオからの通信の文字は、乱れていた。リオが乱れた文字を書くのを、マリンは初めて見た。
——間に合わなかった。アルテミスが連れていかれた。結界が張ってあって、入れなかった。ごめん——
マリンは筆を置いた。ミレーユが傍に立っていた。何も言わなかった。
「引き続き追って、と伝えて」とマリンはクロノスに言った。「あと、リオに伝えて。貴方のせいじゃないって」
マリンは竜の王都への通信の筆を取った。
——シズク。アルテミスが連れて行かれた。リオが結界に阻まれて、間に合わなかった——
返事が来るまで、少し時間がかかった。いつもより長かった。
——竜の王都、王宮・緊急軍議——
竜の王都に宣戦布告の書状が届いたのも、同じ朝だった。王宮の正門に、夜明けと同時に貼り付けられていた。貼った者の姿はなかった。
ライオスが緊急軍議を招集した。6人が集まった。
王・ライオス。王妃・シズク。軍総司令・シリウス。軍副司令・ノア。宰相・ユリウス。建設大臣兼防衛担当・ソイル。
ユリウスが新星教団の概要を説明した。かつてグランツェリア帝国でほぼ国教の地位にあったドラゴンスレイヤー教団の過激派から派生した集団。
ヒカルもカインも元はその教団の軍師だった。
ただ、この教団はカインの名を看板に使っているが、中心にあるのは竜への憎悪だ。論理ではない。説明のつかない種類の、根の深い憎悪。通商連合と帝国の旧貴族派が資金を提供し、吸引器の配布から暴動工作まで——これまでの全部がこの宣戦布告の布石だった。
説明が終わった時、マリンからの通信が届いた。
シズクが読んだ。
軍議の間が、静かになった。
シズクはしばらく、通信の筆を机の上に置いたまま動かなかった。それから、立ち上がった。
部屋の温度が変わった。熱が抜けた。シズクが立ち上がっただけで、部屋から何かが消えた。机の上の水差しの水面が、かすかに揺れた。凍りかけていた。
「一つ、話しておかなければならないことがある」
「竜の王国において、最終決断を下すのは正妃よ。表向きは王であるライオスが頂点に立つ。でも竜族の属性の理から言えば、王国の意思の根幹を決めるのは正妃の役割——それがこの国の本当の姿」
全員が黙っていた。知っていた者たちだ。でも、改めて言葉にされると、その重さが違った。
「父上の時代も同じだった。ヒカル父上が全部決めていたように見えて、正妃であるレヴィア母様の判断が随所に反映されていた。アクア母様やテラ母様やヴァルキリア様がそれを支えていた」
「……レヴィア母様が」とライオスは言った。
「レヴィア母様がちゃんとやれていたかどうかは——」シズクは少し間を置いた。
「それは、言っちゃダメよ、ライオス兄、シズク姉。禁句だわ」
ノアが口元を押さえた。
「戴冠式の夜、アクア母様が私を中庭に呼んだ。あの時母様が言った『覚悟』というのは、マナの話だけではなかった。最後の責任を負うのが正妃である私だ——その覚悟を、あの夜に渡されていた」
シズクは一拍置いた。
「だから今、私が命じます。ライオスは王として、シリウスは軍総司令として——全軍を動かしなさい」
ライオスはシズクの目を見た。何か言おうとして、やめた。
「……動かす」
「御意」とシリウスは言った。迷いはなかった。
「目標は新星教団の全拠点。根拠地、補給線、資金源——全部です。アルテミスの居場所が分かり次第、報告を。でも教団の持つものは、全部潰してください。1つも残さなくていい……」
その前に、ノアが立っていた。椅子が後ろに飛んだ。
「我ら炎の竜に逆らった報いを、その身をもって分からせてやるわ……」
低い声だった。普段の激しさとは違う。もっと深いところから来る声だった。レヴィアの娘の声だった。
「ノア——」とライオスが言いかけた。
「兄様は来なくていいから」
「ユリウス宰相」とノアはユリウスに向かって言った。「何か言いたそうな顔してる」
ユリウスは少し間を置いた。「……あなたの激情の誘導、これは敵の罠ではないですか?」
「そうかもしれない。でも止まらない。それでいい……。シリウスもいいよね?」
シリウスは妻の顔を見た。それから、静かに視線を逸らした。「……止められません。あなたが決めたのなら」
ユリウスは何も言えなくなった。
その時、ソイルが立ち上がった。ただ立っただけで、床が揺れた気がした。壁際の花瓶が、誰も触れていないのに棚の端まで移動していた。
「ユリウス。地脈データを全部出して。あの人たちがどこに逃げても、大地は嘘をつかないから」
「ソイル」とユリウスが呼び止めた。「宣戦布告はいいわ。でも、まず帝国のマリンたちの安全を確保しなければならない。竜の国が動けば、教団が人質として利用しようとする。だから私は裏でマリンたちの退路を確保します」
ソイルはしばらくユリウスを見た。ユリウスは妻の顔を見て小さく笑った。
「分かってる。だから私がここにいるんだろう。任せろ」
シズクの冷気、ノアの炎、ソイルの大地の怒り。3つが重なって、空間が歪んでいた。ライオスは自分の手が震えているのに気づいた。恐ろしいからではない。圧倒されていた。
父上が言っていた。竜の姫たちは、いざという時、俺たちより数段強い。力の話じゃない。意志の話だ、と。今、その言葉の意味が分かった気がした。
「ライオス。一緒に来て。私の隣にいて」
「——ああ」
シズクはやっと振り返った。その目は静かで、深く、冷たかった。でもその奥に、確かに火があった。
「罠でもいい。竜の本当の怖さを、この世界にもう一度刻み直す。それがアルテミスを連れ戻すための最初の一手よ」
廊下に足音が響いた。ノアが先を歩き、ソイルが続き、シズクとライオスが並んだ。
ユリウスだけが、執務室に残った。マリンへの通信の筆を取り、感情を整えて手を動かした。帝国はまだ即時開戦を宣言していない。その温度差を、使わなければならない。
夕暮れの廊下を、足音が遠ざかっていった。
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