第十四話:墜つ
祭典の前夜、イゾルデが来た。
マリンの私室に、ノックもなく入ってきた。それがイゾルデのやり方だった。20年間そうしてきたのだろう。マリンは驚かなかった。
「明日の祭典のことよ」とイゾルデは言った。椅子を引いて座り、マリンを見た。いつもの穏やかな顔ではなかった。
「反対なんですね?」
「当然よ。最初っから大反対よ。レオナルドに何度も言った。でも聞かなかった」
「どんなお話でしたか?」
イゾルデは少し遠い目をした。「帝国が教団の脅しに屈して祭典を中止すれば、帝国の権威が揺らいだことを世界に示すことになる。今この瞬間に帝国が前に出なければ、同盟国への裏切りになる。盟約を守ることが帝国の根幹だ——そういう話よ」
「正しい話ですね」
「正しいわ。あの人、こういう時に本当に頑固になるの」イゾルデは少し苦笑した。「久しぶりに夫婦喧嘩したわ。20年一緒にいても、正しいことを言われると余計に腹が立つのよ」
マリンは少し笑った。
「貴女は行くつもりでしょう」とイゾルデは言った。
「はい、行きます」
「わかったわ、もう止めない。だけど、私も行く。貴女に同じ思いをさせたくない。私が20年かけて分かったことを、貴女には今日分かってほしい」
扉が閉まった後、ミレーユが傍に来た。
「明日の準備を……」とマリンは言った。
「かしこまりました」とミレーユは言った。それから少し間を置いて続けた。「クロノス様とリベル様が、明日は竜の国の国賓代行として式典に出席されます。シズク王妃からの指示だそうです」
「シズクが?」
「はい。名目は国賓。実態はマリン様の護衛です」
マリンは窓の外を見た。帝都の夜は静かだった。
「ミレーユ」
「はい」
「お願い。何があっても、私の隣にいて」
「当然でございます」とミレーユは言った。「私はマリン様だけのメイドですから」
◇◆◇◆◇
帝国とグランツェリア帝国の同盟盟約記念祭典は、毎年この時期に行われてきた。
最初の祭典から数えて、もう20年以上になる。
かつて竜と人間が戦った時代の終わりを刻み込み、新しい時代の始まりを祝う日だ。竜の国からは毎年、重鎮が国賓として出席してきた。六龍姫の誰かが来ることもあった。ヒカル自身が来た年もあった。
今年は——マリンがいるから、それで十分だった。
帝都の中央広場は、朝から人で溢れていた。
石畳の大通りに、色とりどりの旗が並んでいる。帝国の金と黒、竜の国の深紅と蒼。両国の旗が並んで翻るのを見て、マリンは少し息をついた。これが20年間続いてきた光景だ。この光景を守るために、今日ここに立っている。
壇上に上がると、広場の広さが改めて分かった。数万の民衆が集まっていた。最前列には子供たちがいた。花冠を持った女の子が、マリンを見てにっこりと笑った。
「大丈夫か?」とレオンが小声で言った。
「大丈夫よ」とマリンは答えた。
嘘ではなかった。昨夜、覚悟を決めた。だから今は大丈夫だった。
壇上の端に、見慣れない礼装の2人がいた。
一人は、クロノスだ。竜の国の正装——深紅の外套に黒の礼服。普段の影の中の男が、まともに礼装で立っているのを見るのは珍しかった。その隣にリベルが立っていた。こちらも竜の国の礼装。いつものメイド服ではなく、風の竜族らしい淡い翠の衣だった。
本来この祭典には、ライオスかシズクレベルの重鎮が国賓として出席するのが予定だった。
でも今年は、それどころではなかった。宣戦布告から数日、竜の国の中枢は戦時体制に移行している。急遽シズクが2人を国賓代行として指名し、レオナルドもそれを受け入れた。クロノスもリベルも竜の王族であり、高官だ。格としては十分だった。
ただし——2人がここにいる本当の理由は、国賓代行ではない。マリンの護衛だ。
「似合ってる」とマリンは小声で言った。
リベルが口元だけで笑った。それから、隣のクロノスに小声で言った。
「どう、私の可愛さに惚れなおした?」
クロノスは答えなかった。ただ、視線をすっと広場の縁に動かした。
リベルは満足そうに鼻を鳴らした。
マリンは2人を見て、少し笑った。こういう2人がいるから、今日は大丈夫だと思えた。
レオナルドが開会の言葉を述べ始めた。
20年前の戦いの記憶。多くの犠牲の上に築かれた盟約。竜と人間が共に歩むという誓い。その言葉が広場に響くたびに、民衆の顔が変わった。子供たちが真剣な顔になった。老人たちが目を細めた。20年前を知っている人間と、知らない人間が、同じ言葉を聞いている。
これが守りたいものだ、とマリンは思った。
その瞬間だった。
空気が変わった。
体の中から何かが抜けていく感覚だった。水の力が、指先から遠ざかっていく。魔法を呼ぼうとして、来ない。壇上の周囲に、目に見えない結界が張られていた。
広場の縁に、黒い外套の人影が現れた。1人ではない。広場を囲むように展開していた。
民衆が悲鳴を上げた。
最前列の子供たちが泣き始めた。
花冠がひとつ、石畳に落ちた。
帝国の衛兵が動いたが、結界に阻まれた。
クロノスが影に溶けようとして、弾き返された。
リベルが風を呼ぼうとして、それも来なかった。
2人の顔が、初めて焦りの色を見せた。
「マリン、下がれ!!」とレオンが剣を抜いた。
刺客が壇上に飛び込んできた。レオンが弾いた。2人、3人。
でも数が多かった。背後からの一撃を、レオンは体で受けた。
肩から血が出た。白い帝国の礼服がみるみると赤く染まっていく。
それでも剣を手放さず、彼はマリンの前に立ち続けた。
「マリン、逃げろ!!」とレオンが叫んだ。
しかし、マリンは動かなかった。
刺客たちが壇上を囲んだ。その先頭に立った男が、マリンを見た。年嵩の、腕の立ちそうな男だった。狂信者の目ではない。仕事をしている人間の目だった。
「皇妃殿、抵抗しなければ傷つけない」
マリンは男を見た。それから広場を見た。民衆が固唾を飲んでいる。今この場で竜化すれば——恐怖を与える。半年かけて積み上げてきたものを、一瞬で壊す。
それはしない。
「あなたたちの目的は私の拘束ね」とマリンは言った。声が、思ったより落ち着いていた。「アルテミスは宗教的な象徴として。私は政治的なカードとして。竜の国を動かすための人質。そういうことでしょう?」
男が少し目を細めた。
「だから」とマリンは続けた。「あなたたちは私を殺せない。殺したら、カードの価値がなくなる。違う?」
男は答えなかった。でも、答えなかったことが答えだった。
「レオン様」とマリンは言った。
「マリン——」
「クロノス、レオン様をお願い」
壁際の影が揺れた。結界に阻まれながらも、クロノスはそこにいた。
「レオン様を連れて逃げなさい。これは命令です」
「……マリン」
「命令です。レオン様に何かあったら、この国が傾く。それだけは駄目」
レオンが何か言おうとした。マリンはその目を見た。騎士として、皇太子として生きてきた人間の目が、揺れていた。
「レオン様は、まず帝国を頼みます」とマリンは言った。「私は、必ず戻るか……。あなたの隣に戻るから」
クロノスの影がレオンを包んだ。2人が、闇の中に消えた。
刺客たちがマリンに近づいた。
「マリン様」
ミレーユが前に出た。
刺客たちが止まった。
「私はマリン様の筆頭メイドです」とミレーユは言った。感情のない、実務的な声だった。「マリン様だけのメイドです。どこへでもお供します」
男が部下に目配せした。部下が耳打ちした。「あのメイド、ただ者じゃないかもしれませんが」
「今更だ」と男は言った。「余分な人質が1人増えた程度だ。連れて行け」
「ありがとうございます」とミレーユは場違いな笑顔で返した。
マリンはミレーユを見た。ミレーユは小さく首を振った。心配しないで、という意味だと分かった。
リベルは、壇上の端で動けないまま立っていた。
その目が、マリンを見ていた。
大丈夫、とマリンは目で返した。
伝わったかどうか、分からなかった。でも、リベルならシズクに知らせてくれる。そう信じた。
拘束された瞬間、マリンは空を見た。
帝都の空は、青かった。
広場に落ちた花冠が、風に転がっていた。
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