第十五話:シズクの憤怒
報告が届いたのは、夜明け前だった。
リベルからの通信だった。文字が乱れていた。
——マリンが連れて行かれた。ミレーユも。式典の途中で結界が張られて、私もクロノスも動けなかった。レオン様は重傷、クロノスが脱出させた。ごめん——
シズクは通信を読んだ。
読み直した。
もう一度、読んだ。
執務室には軍総司令のシリウスがいた。宰相のユリウスがいた。ライオスがいた。ノアがいた。ソイルもいた。
シズクはしばらく、通信の筆を机の上に置いたまま動かなかった。
アルテミスの時は、神殿だった。
今度は、式典の壇上だ。
白昼堂々と、帝都の中央広場で。帝国の、警備の真ん中で。
部屋の温度が変わった。
今回は最初から違った。徐々に冷えるのではない。一瞬で空気が変質した。机の上の水差しが、音もなく凍りついた。水面だけではなく、器ごと。壁際に霜が走り、窓ガラスに氷の結晶が広がった。
「シリウス」
「はい」
「全軍を帝都方面へ。精鋭を最大限。各地の警戒に必要な最小限は残して」
ユリウスが立ち上がった。「待ってください。アルテミスの神殿は両国の中間に位置しますから、そこへ向かうことに問題はない。でもその先——帝国領への進軍は、盟約上——」
「マリンが攫われた」
「分かっています。だからこそ手順を——」
「マリンが攫われたのよ!!!!!!」
ユリウスは続けようとした。
「マリンが——」
「シズク」とライオスが静かに言った。
シズクは止まった。
部屋の空気が、一瞬だけ揺れた。シズクの手が、机の端を掴んでいた。白くなるほど、力が入っていた。
「ユリウス、もう一度言うわ」とシズクは言った。声が、少し低くなった。「レオナルド陛下の判断が甘かった。それで今こうなっている」
「——」
「式典の強行は誰が決めた。帝国が決めた。私たちは盟約上それを止められない。でも結果がこれだわ。マリンが——」
「シズク」ともう一度、ライオスが言った。今度は少し強く。
シズクは黙った。
部屋が静かになった。ノアが何も言わずに壁を見ていた。ソイルが、そっとシズクの傍に立った。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
「……後ろで走ってついてきなさい」とシズクはユリウスに言った。声が戻っていた。冷たく、静かな声だった。「帝国への説明は貴方に任せる。でも軍は動かす。手順はあとから貴方が整えて」
ユリウスは一拍置いた。「……御意」
「あと、ソイル」
「はい」とソイルが答えた。
「王都を頼むわ。守備隊の指揮を取って。貴方がいれば王都は大丈夫」
「任せて」とソイルは言った。短く、でも揺るぎなく。
シリウスが廊下に向かった。ライオスがシズクの隣に立った。「俺も行く」
「知ってる。ノアも来るでしょう?」
「当然」とノアは言った。すでに外套を手にしていた。
ユリウスは執務室に1人残った。すでに手を動かしていた。
帝国のレオナルドへのホットラインは昨夜から温めてあった。
シズクが動くことは分かっていた。だから先に動線を作っておいた。侵攻ではなく共同作戦。帝国の皇妃を拉致した共通の敵を討つための、同盟国としての軍事行動。その形にしなければならない。
通信の返事は、思ったより早く来た。
——共同作戦として迎え入れる。竜の軍の進軍を許可する。帝都守備隊1万以上を動員する——
続いてイゾルデから、別の通信が届いた。
——水の竜として、同じ立場から伝えます。判断が遅れたことへの後悔は、レオナルドも私も同じです。レオンは傷を負ったまま父の前に立ち、陣頭指揮を願い出ました。妻を救うために、と。それを許可したのがレオナルドの答えです。そして——さすがヒカル王とアクア王妃の娘たちだ、とレオナルドが言っていました。マリン皇妃のことも、シズク王妃のことも。私からも同じ言葉を——アクア様の娘たちですから、と——
ユリウスはその通信を読んで、少し間を置いた。
皇帝が謝れない分を、皇妃が言葉にする。レオンが行動で示す。20年間そうやって、この一家はやってきたのだろう。
シズクへの通信の筆を取った。
◇◆◇◆◇
シズクが半竜人の姿で空に上がったのは、王都を出てすぐだった。
精鋭およそ1800。フェンリア、ソルニア、ルナリス、ウィンドラ——王都に残っていた4人の六天将全員加わっていた。彼らも同じく半竜人化して空を飛んでいた。翼を広げた竜族の部隊が、夜明けの空を埋めていた。馬では数日かかる距離も、この速度なら半日もかからない。
「ルナリス、状況を教えて」とシズクは飛翔しながら言った。
「はい」とルナリスが答えた。「シェイド様のネットワークから報告が上がっています。昨夜から帝国内の旧貴族派が動き始めました。通商連合の主要商会も。中心にはヴェルダン卿がいます」
「ヴェルダン卿……」とシズクは言った。
マリンが帝国に嫁いだ直後、ミレーユが情報を握っていた男だ。あの時は一介の問題貴族に見えた。でも今思えば、あれはもっと深い何かの入口だったのだ。
「どのくらい前から準備していたと思う?」
「少なくとも数年です」とルナリスは言った。
「マナ希薄化の加速、吸引器の製造と配布、各地への工作員の浸透——全部、竜の国の弱体化を見越して仕込まれていた形跡があります。そしてもう一点。シェイド様が気になる情報を掴んでいます。地脈の変動が、一部人為的に操作されている可能性があると。マナの枯渇そのものが、敵の工作の一環だったかもしれない」
シズクは少し黙った。グラウンドが言っていた。消失ではなく、地脈の再編だ、と。偏在が起きている、と。それが意図的に引き起こされたものだとすれば——
「後で詳しく聞く。今は動きを続けて」
「帝国内の旧貴族派と通商連合が、各地で反旗を翻し始めています。辺境でも複数の領主が動きました。今朝から駐留兵との衝突が報告されています。規模は——」
ルナリスは少し間を置いた。
「反乱勢力の総兵力が5万を超える可能性があります」
「5万!?」
「はい。人間の兵士は竜族1体に対して50から100人分の戦闘力です。帝国の守備隊1万に、竜の精鋭1800が加わっても——数の差はある」
「わかったわ、次はウィンドラ」
「はい」とウィンドラが答えた。
「ゼファー様の流通網から同様の情報が入っています。通商連合が封鎖していた物資ルートが昨夜から別の動きをしています。軍需物資の横流しです。各地の反乱に武器を届けている。ただし——エルフ、ドワーフ、辺境十二か国連合は今のところ動きを見せていません」
「シリウスに訊くわ」とシズクは言った。「辺境の貴族が軍を動かしているなら、どこへ向かうと思う?」
シリウスは少し考えた。「帝都ですね。アルテミスとマリン様を人質に、まず帝都を抑えるつもりでしょう。政治的な既成事実を作れば、竜の国も帝国も強く出られない——そういう算段だと思います」
「人質を使って、両国を動けなくする、ってことね」
「はい。だからこそ、帝都へ向かう辺境勢力が帝都に着く前に、こちらが動かなければならない」
数年がかりで準備した敵。マナを弱らせ、吸引器を配り、各地に種を蒔いて——式典の日を合図にして、一斉に火をつけた。
「ふん。しっぽを出したわね」
シズクの声は静かだった。怒りではなく——氷の確信だった。シリウスが横目でシズクを見た。ノアも見た。2人とも何も言わなかった。
「アルテミスの居場所は?」とシズクは続けた。
「そちらは、今もリオが追跡中です」とシリウスが答えた。「神殿周辺から移送された方向を空から追っています」
「わかった。クロノスとリベルは?」
「マリン様とミレーユの行方を追っています。リベルの風の感知で、帝都南西区から別方向へ移送された可能性が高いと……」
「そう。今、ユリウスから通信が来た。帝国との折衝、形が整ったと。レオンが帝都守備隊1万以上を率いて動くわ」
「レオン? 皇太子自らが陣頭指揮を」とノアが言った。「マリンに頼まれたんだから、当然ね」
「それと——」とシズクは言った。「イゾルデ様からの伝言が届いた。さすがヒカル王とアクア王妃の娘たちだ、と。マリンのことも、私のことも、だって」
ノアは少し黙った。
「プレッシャーかけてくるね」
「そうね。ふふ、でも悪い気はしない」
空が完全に明るくなっていた。
敵が全部動いた。動いたということは、居場所が分かる。ルナリスとシェイドが追い、ウィンドラとゼファーが流通の尻尾を掴む。リオがアルテミスを、クロノスとリベルがマリンを追う。レオンが帝国で盾になる。
辺境の反乱軍が帝都に着く前に、こちらが動かなければならない。
「全軍の速度を上げて」とシズクはシリウスに言った。
「御意!」
1800の精鋭が、夜明けの空を切り裂いて飛んでいった。
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