第十六話:囚われの花たち
最初に分かったのは、暗いということだった。
次に、冷たいということ。石の床だった。壁も石だ。地下だろう。窓がない。空気がよどんでいる。
マリンは体を起こした。頭が痛かった。結界の影響が、まだ残っているのかもしれない。体の中が空洞になったような感覚——水の力を呼ぼうとして、来ない。竜化しようとして、できない。
「マリン様」
ミレーユの声だった。
「ミレーユ!」
「はい。無事でございます」
暗さに目が慣れてくると、輪郭が見えてきた。ミレーユが壁際に座っていた。メイド服が汚れていたが、姿勢は崩れていなかった。その隣に、小さな人影がある。
「……アルテミス?」
「……お姉様?」
アルテミスの声は、かすれていた。17歳の末妹が、膝を抱えて壁にもたれていた。白い祈り衣が薄汚れている。目の下に隈がある。神殿で1週間祈り続けた後に捕縛されたのだ。疲弊しているのは当然だった。
「怪我は?」
「ありません。ただ、力が……」
「ここは結界が張ってある」とマリンは言った。「私も力が使えない。無理しなくていいわ」
アルテミスは小さく頷いた。
◇◆◇◆◇
ミレーユが動き始めたのは、マリンが目を覚ましてすぐだった。
部屋の中を歩き回った。壁を叩き、床を踏み、天井を見上げた。扉の隙間から廊下の気配を探った。音がするたびに止まり、耳を澄ました。
「地下の一室でございます」とミレーユは言った。「廊下の向こうに衛兵が2人。交代は2時間おき。足音の重さから、重装備ではございません」
「ここがどこか分かる?」
「帝都の南西区かと存じます。移送中の揺れ方と時間から判断しました。建物は古い造りです。石の目地が荒く、倉庫か廃屋の地下と思われます」
「目隠しをされていたのに!?」
「耳と体の感覚は使えますので」とミレーユは言った。「リリア様に叩き込まれました。どんな状況でも情報は取れ、と」
マリンはミレーユを見た。
「ミレーユが来てくれて、よかった」
言葉が口から出た。思っていたことが、素直に出てしまった。
「マリン様」とミレーユは言った。
「なに?」
「弱音は後でいくらでも吐けます。今は使える頭を全部使ってください」
マリンは少し笑った。叱咤されるとは思ったが、こういう形だとは思わなかった。
「ヴェルダン卿の動きは分かる?」
「はい」とミレーユは言った。「連れてこられた時に、廊下で声が聞こえました。ヴェルダン卿と教団の幹部らしき人物が話しておりました。帝都を抑えた後、マリン様を交渉の切り札として使うつもりのようです」
「アルテミスの扱いは?」
「宗教的な象徴として別に使う、と。聖女アルテミスが教団の庇護下にある——そういう絵を作りたいようです」
マリンは少し考えた。
つまり、自分たちはまだ生きていなければならない存在だ。殺せない。それはあの式典の壇上でマリン自身が見抜いたことだった。ならば——今は急がない。情報を集めて、機会を待つ。
「ミレーユ、脱出できそう?」
「今はまだ難しゅうございます。ただ——」ミレーユは扉を見た。「衛兵の1人が、声から判断するにあまり乗り気ではなさそうでございます。金で雇われた傭兵かと。そういう人間は、別の取引に乗ることがあります」
「どうやって取引するつもりなの?」
「まず情報を集めます」とミレーユは言った。「外の状況——竜の軍がどこまで動いているか、帝国軍の反応、反乱軍の現在地。それを把握した上で、衛兵に見せる。自分が負け側にいると気づかせるのが、最初の手です」
「情報をどうやって集めるの? ここは外と繋がっていないのに……」
「衛兵と話します」とミレーユは言った。「人間は、話しかけられると何かを返してしまうものです。意図的に返さなくても、返し方の中に情報が含まれる。私はそれを読みます」
マリンはミレーユを見た。
この人はこういう人だ。リリアが手塩にかけた、この人は。
「アルテミス」とマリンは言った。
「はい」とアルテミスが答えた。ずっと黙って聞いていた。
「貴方は何かできそう?」
アルテミスは少し考えた。「私、祈ってもいいですか?」
「力が使えないのに?」
「力は使いません」とアルテミスは言った。「ただ、祈るだけです。光の神殿でずっとやってきたことだから——力がなくても、できます」
マリンは少し考えた。
「もちろん、お願いするわ」
アルテミスは目を閉じた。声を出さない祈りだった。唇が、かすかに動いている。それだけだった。
でも——何かが変わった気がした。部屋の空気が、少しだけ違う。何がどう違うのか、マリンには説明できなかった。
◇◆◇◆◇
夜になった。
食事が運ばれてきた。粗末なものだったが、ミレーユが確認して毒はないと判断した。3人で黙って食べた。
衛兵の交代があった。
ミレーユが扉の前まで歩いた。
「少しよろしいですか?」
返事がなかった。
「私はただのメイドです。竜族でも、聖女でもない。余分な人質でしょう。お二人に比べると軽い命なのです。ですから私にだけ教えていただけませんか。とても不安でしょうがないのです……。今、外はどうなっておりますか?」
しばらく沈黙があった。
「……何が知りたい?」
男の声だった。低くて、疲れていた。
「竜の軍が動いていると聞きました」とミレーユは言った。声は穏やかだった。商家の娘が世間話をするような口調だった。「帝国軍も。そのあたりの状況を……」
「俺が知るわけないだろう」
「そうですか」とミレーユは言った。「では、もう一つだけ。辺境の領主たちが軍を動かして帝都に向かっているという話は、本当でしょうか」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
返事をしないことが、返事だった。ミレーユはそれを受け取って、戻ってきた。
「辺境の軍が動いています」とミレーユはマリン様に言った。「衛兵は否定しませんでした。帝都を抑えに来ている。反乱軍の規模は、想定以上かもしれません」
「でも竜の軍も動いている」
「はい」とミレーユは言った。
「確認できました。衛兵の声に、わずかな動揺がありました」
「竜の軍が動いていると知らなかったの?」
「知っていたと思います。ただ——」ミレーユは少し間を置いた。
「これだけ早く来るとは思っていなかったのでしょう。竜の軍が動くには数日から1週間かかる、帝国の混乱が落ち着いてからだ——そういう算段だったと思います」
「随分と甘い読みね。シズクがそんなに待てるとは思えないわ」
「ヴェルダン卿たちは竜をよく知らないのだと思います」とミレーユは静かに言った。
「竜族が半竜人化して飛べば、馬の10倍以上の速度が出ます。そういう基本的なことを、知らないか、知っていても実感していない。帝国の廊下で『トカゲ』と呼んでいた人間たちは、竜を本当の意味で見たことがないのです」
マリンは少し黙った。
「第二話の門で」とマリンは言った。「ヴェルダン卿の部下が言っていた言葉を、ミレーユは覚えてる?」
「もちろんですとも。覚えていますわ」とミレーユは言った。「『トカゲ』と。その蔑視が、今回の誤算の根拠です」
マリンは少し考えた。
「で、次の接触で、何を言うつもり?」
「彼が傭兵であれば、この仕事の先に何があるかを考えているはずです」とミレーユは言った。「反乱軍が帝都を抑えたとして、その後どうなるか。竜の軍と帝国軍が合流して反撃に来た時、どちら側にいるのが得か。そこまで考えさせるのが次の手でございます」
「なるほど。弱みは握れそう?」
「もう少し話せば。傭兵は情報に弱い。自分の知らないことを知っている人間に対して、心理的に押される傾向があります」
マリンはミレーユを見た。
「リリアはこういうことも教えたの?」
「リリア様は、すべての状況で主を守る方法を考えろ、とおっしゃいました」とミレーユは言った。「武器がなくても、魔法がなくても、言葉と情報があれば道は開ける、と」
アルテミスがまだ祈っていた。
もう1人の衛兵が、交代の時間でもないのに廊下を歩く音がした。立ち止まった。扉の前で、しばらく動かなかった。それから、また歩き去った。
「あの衛兵」とマリンは小声でミレーユに言った。
「アルテミス様の祈りが届いているのかもしれません」とミレーユは静かに答えた。「声ではなくとも、何かが伝わっているようでございます。あの衛兵が落ち着かない様子なのは、祈りが始まってからです」
マリンはアルテミスを見た。
目を閉じて、静かに祈り続けている末妹。力がない。魔法が使えない。でも——止まらない。
それがアルテミスの戦い方だった。
「ミレーユ」
「はい」
「明日、もう一度あの衛兵に話しかけて。今度は私も一緒に」
ミレーユが少し目を細めた。それが、この人なりの「それは良い考えです」という顔だとマリンには分かった。
地下の石の部屋で、3人は眠った。
眠る前に、マリンは思った。シズクは今頃、空を飛んでいる。アクア母様の娘として、竜の王妃として、妹を取り戻すために。
大丈夫だ。
でも、待っているだけではいない。
それがヒカル父上の娘として、マリンが出した答えだった。
ぜひご感想をお寄せください。
また評価とブックマークもしていただけると嬉しいです!!




