第十七話:両側の戦い
——アルテミスの神殿跡、外周——
神殿の周囲は、静かだった。
教団が占拠した痕跡があった。扉が破られ、礼拝堂の窓が割れていた。でも人影はない。アルテミスも、マリンも、ここにはいない。リオが連れ去られる瞬間を上空から目撃して報告していた。ここは集合地点として使われていただけだ。
「ここを拠点にします」とシズクは言った。
神殿の南門前に、レオンが立っていた。肩に包帯を巻いたまま、帝国軍の礼装を身に着けていた。傷は処置しただけで、治っていない。それでも剣を持っていた。その後ろに、帝国の精鋭が展開していた。
「合流が早いですね」とレオンは言った。「助かります……」
「二人の妹のためだから当然よ。で、マリンの居場所は?」
「クロノスとリベルが帝都南西区を絞り込んでいます。もう少しで場所が特定できるはずです。アルテミスの行方は——リオが南東方向に追跡中です」
シズクは神殿全体を見渡した。シリウスが地図を広げた。
「部隊を分けます」とシズクは言った。「聞いてください」
「マリンとアルテミスの捜索救出——シリウスとフェンリアが担当します。クロノスとリベルが場所を特定し次第、即時突入」
フェンリアが前に出た。炎の翼が、夜明けの空気の中でゆらりと揺れた。橙色の髪が、火に照らされたように輝いている。「任せてください。壁があれば燃やします。扉があれば叩き壊します」
「派手にやりすぎないで」とシズクは言った。
「心がけます」とフェンリアは言った。心がけるだけで約束はしなかった。
「アルテミスの追跡はソルニアが加わります。リオと連携して」
ソルニアが頷いた。金の鎧が朝の光を弾いた。メイド頭巾が風に揺れている。
「光の属性は、光の聖女の気配に敏感です。アルテミス様の祈りの残滓を辿れるかもしれません」
「頼みますね」
「辺境の反乱軍が帝都に迫っています」とシズクは続けた。「ライオスとノアが西門手前で迎撃中です。帝都に入れさせない。レオン様は帝国軍を率いて帝都内の鎮圧を。帝国領の内側で動くのは帝国軍が正しい」
レオンは静かに言った。「——御意」
「テラナとアクアリーヌに予備兵力を率いさせます。やつらは我々のことを過小評価しているようです。間違いなく背中側ががら空きで、そこを突けば総崩れになります」
テラナが斧を肩に担ぎ直した。岩石のような翼が、どっしりと広がった。背は低いが、立っているだけで地面が重く感じる。「つまりはヴェルダン卿の屋敷を強襲するのですね。壁ごと崩してきます」
「殺さないで」とシズクは言った。「証人として必要です」
「分かっていますよ」とテラナは言った。「では、壁だけ崩します」
アクアリーヌが静かに前に出た。水の翼が、青く透き通っている。「では、美味しいところはテラナに譲って、私は物資拠点の封鎖を担当します。通商連合が横流しした軍需物資のルートを凍らせます。物理的に、完膚なきまでに」
「そう、3か所同時に」とシズクは言った。
「時間差を作らないで」
「問題ありません」とアクアリーヌは言った。「水は同時に複数の場所に流れられますから」
「ウィンドラは全部隊の連絡役を」
ウィンドラがにっこりと笑った。風の翼が軽やかに広がる。笑顔が印象的だが、その目は既に全方位を見ていた。「各部隊の間を飛び回ります。情報が止まると戦は負けますから」
「ルナリスは教団の指揮系統を内側から崩してください」
ルナリスは何も言わなかった。黒い翼が、影のように静かに広がった。闇の鎌が、朝の光を吸い込んでいる。頷きだけで答えた。それで十分だった。
「私は?」とシリウスが言った。
「全体の指揮を私と一緒に。フェンリアとの突入が終わり次第、合流します」
シズクは6人を見渡した。
フェンリアの炎、ソルニアの光、テラナの大地、アクアリーヌの水、ウィンドラの風、ルナリスの闇。6つの属性が、夜明けの空に揃っていた。親世代が積み上げてきたものが、今この6人の中に生きている。
「では、始めましょう」
◇◆◇◆◇
——帝都南西区、地下牢——
2日目の朝が来た。
マリンは石の壁に背中を預けて、衛兵の足音を数えていた。交代のリズム。歩幅。立ち止まる位置。昨日ミレーユが教えてくれたことを、頭に入れていた。
「準備はいい?」とマリンはミレーユに言った。
「はい」とミレーユは言った。「ただし、マリン様」
「なに?」
「今日は私ではなく、マリン様が話してください」
マリンは少し驚いた。「私が?」
「昨日は私が話しました。今日は皇妃が直接話す。それが効きます」
「う~ん。どんなことを言えばいい?」
「竜の軍が動いたこと。帝国軍と合流したこと。反乱軍が帝都に入る前に叩かれる可能性があること。それを、皇妃として、事実として伝えてください」
「脅すの?」
「事実を伝えるだけでございます」とミレーユは言った。「脅しは相手を追い詰める。事実は相手に考えさせる。今は後者が必要です」
衛兵の足音が近づいてきた。
マリンは立ち上がった。扉の前まで歩いた。
「少しよろしいですか?」
昨日とは違う声が出た。筆頭メイドの声ではなく、皇妃の声が出た。
足音が止まった。
「昨日、私のメイドが話しかけたかと思います」とマリンは言った。「今日は私が直接お話しします。マリン、グランツェリア帝国皇妃です」
沈黙があった。
「竜の国の軍が動いています」とマリンは続けた。
「半竜人化して飛べば、帝都まで半日もかかりません。今頃、神殿跡に展開しているはずです。帝国軍とも合流している」
「……」
「辺境の反乱軍が帝都に向かっていることは知っています。でも竜の精鋭と帝国軍が合流した勢力と正面から当たれば、どうなるか。竜族1体の戦闘力がどのくらいか、貴方はご存知ですか。人間の兵士50人から100人分に相当します。特に中心にいる六天将という精鋭は500人でも倒せない。竜の王族もそのレベルです」
足音がしなかった。立ったまま、聞いている。
「私は貴方を脅したいのではありません」とマリンは言った。「ただ、事実をお伝えしたい。この建物がどこにあるか、外の人間はもう調べています。時間の問題です。その時に、貴方がどちら側にいるかは——貴方が決めることです」
長い沈黙があった。
「……俺には関係ない」と男は言った。でも、声が昨日より低かった。
「そうですか」とマリンは言った。「でも、もし関係あると思うことがあれば、また話しかけてください」
マリンは戻った。
ミレーユが小さく頷いた。
「揺れてると思う?」とマリンは小声で聞いた。
「はい」とミレーユは小声で答えた。「声の低さと、返事の遅さが変わりました。考えています、間違いございませんわ」
「次はいつ話す?」
「今夜の交代の時に、もう一押しします」とミレーユは言った。「竜側についた場合の具体的な利益を見せる段階です。傭兵は損得で動く。教団が崩れた後の粛清の歴史、竜の国の恩赦の前例——数字で見せます」
その時、アルテミスが目を開けた。
「お姉様」
「なに?」
「風が来ました」
マリンは顔を上げた。地下の石の部屋に、窓はない。でも——確かに、空気がかすかに動いた気がした。ほんの少しだけ、外の空気が混じったような。
「リベルの風です」とアルテミスは言った。「力がなくても、分かります。光の神殿で祈り続けると、こういうものが分かるようになるから」
マリンは石の天井を見上げた。
外から、信号が来た。リベルが、この建物の場所を掴んでいる。
「ミレーユ」
「はい」
「急ぎましょう。今夜中に衛兵を動かせる形にして」
「かしこまりました」とミレーユは言った。「ただし——実際に動くのは、外が整ってからです。クロノス様が来るのを待って、両側から同時に」
「リベルの風が届いたなら、クロノスはもう近くにいるわ」
「おそらくそうです、クロノス様は完璧な仕事をされますので」
マリンは頷いた。待つことも、戦いだ。でも——もう長くはない。
◇◆◇◆◇
——アルテミスの神殿跡、指揮所——
各部隊が動き始めた報告が、次々と届いた。
ウィンドラが風のように飛び回りながら、各部隊の状況をシズクに届けてくる。
「テラナ部隊、ヴェルダン屋敷に接触。外壁に亀裂を入れています」
「アクアリーヌ部隊、物資拠点3か所を同時封鎖。補給路を凍結中」
「ライオスとノアが西門手前で反乱軍の先頭と交戦。膠着しています——ライオスが突っ込もうとしているとノアが言っています」
「そこはノアに任せましょう」とシズクは言った。
「ルナリス部隊は無音です」とウィンドラは言った。「でも教団の通信が突然止まりました。動いているはずです」
シズクは頷いた。ルナリスは報告しない。結果だけを出す。それがあの人のやり方だ。
「シリウスは?」
「シリウス様と合流されたクロノス様から連絡が入りました」とウィンドラが言った。「監禁先の建物を特定しました。帝都南西区の旧倉庫の地下です。突入準備中です」
「それと内側でも動きが」とウィンドラが続けた。「メイド隊のミレーユが衛兵を動かしかけているようです」
「それは好機です。では両側を同時に動かしましょう」とシズクは言った。「タイミングをシリウスとクロノスで合わせさせて」
「それと——」とウィンドラが言った。「リオから報告が来ました。アルテミス様の移送先を追跡していましたが、帝都南西区の同じ建物に入ったことを確認しました。マリン様たちと同じ場所に幽閉されています」
シズクは少し目を細めた。
「同じ場所に?」
「はい。別々に運んで、最終的に同じ場所に集めたようです」
「……なるほど」とシズクは言った。「まとめて管理した方が、人質として使いやすいから、ね。」
「ではソルニアはどうしますか?」とシリウスが通信越しに言った。「別の場所に向かわせる予定でしたが……」
「そうね。フェンリアと一緒に動かして」とシズクは言った。「3人まとめて救出します。クロノスが内側から、フェンリアとソルニアが外から同時に。シリウスは全体指揮をお願い」
「御意」
「リオ!」とシズクは空に向かって言った。
上空から、リオが降りてきた。
「アルテミスの場所が確認できた。ありがとう」
「分かってよかった」とリオは言った。「ハヤテが待ってるから、俺も早く終わらせたい」
シズクは少し笑った。
夜が深くなっていた。
6つの属性が、帝都の各所で動いていた。炎が壁を崩し、光が闇を照らし、大地が敵の足を奪い、水が補給を凍らせ、風が情報を繋ぎ、闇が敵の指揮を断つ。
親世代が積み上げてきたものが、今この夜に、次世代の手で動いていた。
「今夜、終わらせましょう。みんなあと一息ですわ」とシズクは静かに言った。
誰に言ったわけでもなかった。でも、その言葉は夜の空気に溶けていった。
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