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第六話:宰相の釘刺し

 朝の執務室は、報告書の匂いがした。


 羊皮紙と、インクと、読み返し過ぎた書類が少しずつ放つ、あの独特の乾いた匂い。シズクはユリウスの執務室の扉を開けた瞬間、今日は長くなると思った。


 机の上に積まれた書類の高さが、平常の1.5倍あった。


「お待ちしていました、シズク王妃」


 ユリウスが立ち上がる。顔色が悪い。昨夜も遅かったのだろう。この男が顔色を悪くしても文句を言わないのは、自分が招いたことを分かっているからだ。


 ライオスはすでに来ていた。部屋の隅の椅子に座り、腕を組んで天井を見ている。訓練用の外套のままだった。急いで呼ばれたか、呼ばれた時に訓練中だったかのどちらかだ。


「ライオス、服」


「分かってる」とライオスは言ったが、直そうとはしなかった。


 ユリウスが書類の束を机の中央に置いた。


「始めましょう」



 ◇◆◇◆◇



 最初の15分は、数字だった。


 今年度の国庫収入、魔法インフラの維持費、辺境農村への補助金。シズクは手元の控えに目を落としながら追った。数字は正確だった。ユリウスの出す数字はいつも正確で、それゆえに余裕を奪う。


「軍備増強の件から確認させてください」


 ユリウスが一枚の書類を抜き出した。


「シリウス総司令からの要請書です。マナ希薄化による魔法攻撃力の低下を補うため、騎馬部隊を2割増、魔導兵器の換装を含む増強案で——今年度予算の17%増しになります」


「いくらだ!?」とライオスが口を挟んだ。


「今申し上げた数字です」


 ……沈黙。


「シリウスの判断は妥当です」とユリウスは続けた。「魔法に依存できないなら物量で補う。論理は正しい。ただし、全額通すと機械式水路の整備費、辺境補助金、エルフとドワーフへの技術協力費が削減対象になります」


「技術協力費を削るのか」シズクは顔を上げた。


「削れないから困っているんです」


 ユリウスがわずかに眉を動かした。感情的な反応ではない。これが彼の「困っている」の顔だと、長年見てきたシズクには分かる。


「エルフとはマナ計測技術の共同研究協定を今年更新したばかりです。ドワーフとは機械式水路の部品供給で協議中です。どちらも今削れば、次の更新はない」


 ライオスが腕を組み直した。


「じゃあどうする。金がないなら断るしかない」

「断るとも、金がないとも言っていません」

「同じことだろう?」

「違います」


 ユリウスは机から薄い書類を1枚取り出した。


「本題はここからです」



 ◇◆◇◆◇



「通商連合が、動いています」


 部屋の温度が少し変わった気がした。シズクはそう感じたが、窓は閉まっていて風は入っていない。


「竜の国の東方3港への寄港申請を、今月に入って5件保留にしています。理由は書類不備。ただしウィンドランナーが確認したところ、書類に不備はありません」


「またいつもの嫌がらせか」とライオスが言った。


「はい、意図的です。5件のうち3件は食糧品の輸送船で、うち1件は辺境農村向けの穀物を積んでいます。マナ希薄化で自給が落ちている地域への補給便です。止まれば困る船を選んで止めている」


 シズクは地図を見た。東方3港の位置。辺境農村との距離。


「ゼファー総監は把握しています。風の監視網で荷動きを追っていて、ウィンドランナーが代替ルートの試算を始めています。完全に代替できるまで10日、おそらく7日で目処が立つ」


「今すぐ動けないのか?」ライオスの声が低くなった。


「今動くのは悪手です」ユリウスは続けた。「通商連合の経済力はこの国の貿易量の4割に絡んでいます。正面から揉めれば短期的な打撃はこちらの方が大きい。ただ——」


 一拍置いた。


「連合を正面から叩くのではなく、御することで話が変わります」

「御する?」

「連合はこの国の物流に乗って利益を得ています。我々が東方3港の整備を進め、流通量が増えれば連合の取り分も増える。逆に言えば、連合が嫌がらせを続ければ自分たちの首を絞める。それを数字で見せる」


 ライオスが眉を寄せた。


「それで引くのか、あいつらが?」


「引かせます」ユリウスは断言した。「ギルティアが連合の主要取引先3社への課税調査を通知する。同時にウィンドランナーが代替ルートを確保し、こちらが連合に依存しない体制を見せる。連合の上層部が数字を読める人間なら、意味を理解します」


「脅しではなく、計算で動かすわけか」


「そうです。そして——」ユリウスは机の上の軍備の書類に目を戻した。「連合を御して物流が安定すれば、東方3港の通関収益が今より3割近く増える見込みです。ギルティアの試算ではその増収分で、シリウスの要請の6割は賄える計算になります」


 沈黙が落ちた。


 今度はライオスが黙っている種類の沈黙だった。シズクには分かる。怒りではなく、計算している時の沈黙だ。


「……つまり」とライオスがゆっくり言った。「連合を御することが、軍備の財源にもなる」


「直接ではありませんが、そういうことです」

「……最初からそう言え」

「申し上げました。本題はここからです、と」


 ライオスの目が細くなった。シズクは次の言葉が来る前に口を開いた。


「……いい加減にしてください、2人とも」



 ◇◆◇◆◇



 2人の兄が、同時にシズクを見た。


「ライオス。ユリウスの言い方が回りくどいのは昔からです。慣れてください」

「俺が——」

「ユリウス。ライオスが怒るのは貴方が結論を最後に言うからです。次からは逆にしてください」


 ユリウスが口を開こうとした。


「2人の言っていることはどちらも正しい。ならさっさと次に進みましょう」


 また、沈黙が落ちた。


 ライオスが先に息をついた。


「……7日でウィンドランナーが動く。ゼファーが監視する。ギルティアが課税調査の通知を出す。連合が引いたら増収分をシリウスの要請に回す。そういうことか」

「概ねそうです」

「わかった。7日を過ぎたら俺が動くぞ」

「王が動くという選択肢を連合に意識させることも、圧力になります。7日という期限はこちらにも使えます」


 ライオスは少し黙った。それから、少し違う顔になった。怒りでも納得でもない、もう少し苦いものが混じった顔だった。


「……お前は昔からそうだ。気づいたら、俺も計算の一部になってる」

「貴方が動くことに意味があるから使うんです。有効な駒ですから」


 それ以上でも以下でもない言い方だった。ただの事実として言っている。でもライオスは、その言葉をしばらく口の中で転がすように黙っていた。


「……弟のくせに生意気だ」

「兄上のお役に立てて光栄です」

「その言い方が一番腹立つ」


 それでも、腕は解けていた。ライオスが腕を解くのは、納得した時だとシズクは知っている。23年間そうだった。


「分かった。ユリウスの線でいく」


 シズクは書類を揃えた。


「ユリウス、認可書類は今日中に回します。ライオス、服を直して」

「……分かった」


 今度は直した。


 ◇◆◇◆◇


 廊下に出ると、ソイルがいた。建築資材の見積もり書を抱えて、柱に背中を預けている。待っていたのか、たまたま通りかかったのか。ソイルの場合どちらでもあり得るので、シズクは聞かなかった。


「終わった?」

「終わったわ」

「ライオスの声、少し聞こえてた」

「そう」


 2人で並んで歩き出した。シズクはしばらく黙ってから言った。


「ソイル姉様、ユリウスに言ってもらえませんか。結論を最初に言う習慣をつけるよう」


 ソイルがゆっくり首を傾けた。


「それ、シズクが言ったんじゃないの?」

「言った。でも、伝わってない」


「そう」とソイルはのんびり言った。「でも私が言っても同じだと思う。あの人、シズクの言葉しか聞かないから」


「聞いてないから言ってるんだけど」

「聞いてるわよ、ちゃんと。ただ時間がかかるだけ」


 シズクはため息をついた。ユリウスが時間をかけて変わるというのは、正直あまり想像できなかった。でも、ソイルが言うなら、もしかしたらそうなのかもしれない。この人は嘘をつかない。嘘をつく必要がないほど、物事をゆっくり見ている。


「ソイル姉様はいつもそうやって丸く収める」


「そう?」ソイルは特に否定しなかった。「でも今日は丸く収めたのシズクでしょう」


「……丸くはなかった」

「2人とも大人になってください、はだいぶ丸いわよ」


 シズクは少し黙った。


「怒ってたの……」


「知ってる」とソイルは穏やかに言った。「怒りながら正しいことを言えるのが、シズクのいいところよ」


 廊下の突き当たりから、午後の光が差し込んでいた。


 7日後には連合が引くはずだ。ゼファーが監視して、ウィンドランナーが代替ルートを引いて、ギルティアが数字を動かす。そして7日間、ライオスを止めておく——それが一番難しいかもしれないが、今日のライオスを見る限り、たぶん大丈夫だ。あの顔は、信じると決めた顔だった。


「行きましょう」とシズクは言った。「ユリウスへの書類、今日中に出さないといけない」


「はいはい」


 2人の足音が、廊下に並んで響いた。



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