第五話:双子の密談(通信)
深夜の執務室に、ロウソクが3本だけ灯っていた。
シズクは机の上の書類を1枚めくり、次の1枚をめくり、それから止まった。読んでいない。目が字を追っているだけで、内容が頭の中に入ってこない。
窓の外は静かだった。静かすぎた。
昼間の賑やかさが嘘のように、王宮の夜は音が消える。衛兵の交代の足音が廊下を過ぎていく。それだけだ。ライオスは日暮れ前に訓練場から戻ってきて、風呂にも入らずに執務机に突っ伏して眠っていた。シズクが毛布をかけて執務室に移ってきた時には、すでに規則正しい寝息を立てていた。あの寝方はあと6時間は起きない。経験則で分かる。
ユリウスからの書簡がある。機械式水路の認可書類の第一稿が完成した、明朝確認してほしいという内容だった。ユリウスが「明朝」と書く時は、すでに本人は夜明けまで起きて仕上げるつもりでいる。
シズクはペンを持ったまま、書類の上に視線を落とした。
辺境の農村のことを考えていた。アルテミスのことを考えていた。それからアクア母様の言葉を考えた——また密度が下がり始めている——それから、気づくとマリンのことを考えていた。
マリンが帝都に行って2週間。そろそろ慣れてきた頃か、いや、まだか?
眠っていなかったら?
シズクは引き出しを開けた。奥の方から、細長い筒を取り出す。魔導通信の筆だった。母から譲り受けたものだ。アクア母様が長年研究し続けたマナの測定装置と同じ理屈で動く——大気中の極わずかなマナの揺らぎを捕まえて、遠くへ信号を届ける。今の希薄なマナでも、双子の波長が合えば繋がると言っていた。
「合えば」という条件が不安だった。
シズクは筆を持ち、白紙の上に、まず1文字だけ書いた。
――マリン。
線が、ほんの少しだけ光った。
◇◆◇◆◇
マリンはその夜、眠れずにいた。
眠れない、というより、眠ろうとしていなかった。レオン様が執務を終えて戻ってくるまでの間、自室の窓際の椅子に座って、帝都の夜景を見ていた。竜の国とは違う、石造りの都市の闇。灯りの少ない夜道を、衛兵が2人組で巡回している。
帝都に来て2週間。
慣れてきた、と言えば嘘になる。慣れてきた部分もある、なら本当だ。石畳の廊下の長さは把握した。朝食の時間帯にどの廊下が混むかも分かった。でも夜になると、部屋の天井が高すぎると感じる。竜の国の自室は、こんなに高くなかった。
羽ペンを持ったのは、なんとなくだった。書くことが決まっていたわけではなかった。ただ、手が動いた。白紙の上に、姉の名前を書こうとして——その前に、手元の紙がかすかに光った。
マリンは口元が緩むのを止めなかった。
――起きてたの、シズク。
◇◆◇◆◇
筆が光ったのを見た瞬間、シズクの肩から力が抜けた。
繋がった。——この子も起きていた。
文字が浮かんでくる。マリンの字だ。少し丸くて、でも線がしっかりしている。子供の頃から変わらない字だった。
――シズクこそ、また仕事してたんじゃないの?
――してない。書類を眺めてただけ。
――それを仕事って言うんだよ。
文字が滑らかに浮かぶ。シズクは少しだけ笑った。
――そっちは大丈夫?
少しだけ、間があった。
――大丈夫。今日は茶会で感じのいい人と話せた。ミレーユが事前に調べてくれてたから。
――ミレーユが!?
――元気。昨日、ヴェルダン卿の書記が失礼なことしたら、予算書の数字で完全に黙らせてた。怖かったわよ~。
シズクは声を立てずに笑った。ミレーユは本当にあの仕事が向いている。
――クロノスとリベルは?
――クロノスはいつも通り。「いつも通り」が何を意味するかはシズクも分かるよね。リベルは昨日、厨房でお茶淹れながら情報3つ取ってきた。私より働いてる。
――あの子はゼファー様の仕込みが出てるわね。
――ゼファー様直伝だって。情報は厨房と廊下にある、って言ってた。
シズクは少し考えてから書いた。
――こっちはソイルシズクが機械式の水路の設計を持ってきたわ。
――機械式?
――魔力を使わない水路の仕組み。テラ母様と一緒に研究してきたらしい。試作は去年から動いてる。
しばらく間があった。
――それ、シズクが認可するの?
――した。今朝。
――よかった。
たったそれだけの返事だった。でも、その3文字で十分だった。長い説明も、理屈も、評価もなく、ただ「よかった」と書いてくる妹のことを、シズクはずっと好きだった。
――アルテミスが辺境から来てたの。視察で。
――元気だった?
――疲れてた。でも働いてた。あの子、時々17歳らしくない顔する。
――神殿でずっと1人でいるもんね。
マリンの字が、少し遅くなった。
――ねえ、シズク。
――なに?
――うまくいかない時に、諦めたくなることってある? 帝国は広いし、知らない人ばっかりで、敵意がある人もいて。分かってたことなんだけど。
シズクは筆を止めた。書こうとして、止めた。慰めの言葉を並べたくなかった。マリンはそれを求めていない。
――続けて。
――こういう時間があると、少し整理できる気がする。ここには私だけじゃないって思えるから。
しばらく、どちらも何も書かなかった。
繋がったままの沈黙が流れていた。シズクはロウソクの炎を見た。3本のうち1本が、揺れた。夜の風が窓の隙間から入ってきているのだろう。
――マリン。
――うん。
――あなたのやり方は間違ってない。
少し間があった。
――なんで分かるの?
――23年双子でいたから。
また間があった。それから。
――それ、根拠にならないよ。
――一番強い根拠よ。
マリンの字が、わずかに崩れた気がした。笑ったのかもしれなかった。
――明日の茶会、うまくいったら報告する。
――待ってる。
――シズクもちゃんと眠ってね。書類は逃げないから。
――分かってる。
――本当に?
――分かってるわよ。
マリンからの返事が、来なかった。
シズクは少し待った。筆の先がまだ温かい。繋がっている。接続が切れたわけではない。なのに、文字が来ない。
――マリン?
返事がない。
――マリン。
やはり来ない。
シズクは立ち上がった。椅子が音を立てた。頭の中で何かが早くなる。返事がない理由を考えようとして、理由が次々と浮かぶ。倒れた。誰かに——。考えるな。考えるな。でも止まらない。アクア母様の声が耳の奥で鳴る。また密度が下がり始めている。帝都は遠い。遠くて、何も見えない。
筆を持つ手が、ほんの少し震えていた。
――マリン、返事して。
◇◆◇◆◇
マリンが気づいたのは、窓の外でレオンの足音が廊下を近づいてくるのを聞いてからだった。
ずいぶん、筆から目を離していた。
夜風が窓の隙間から入ってきて、部屋の隅に飾ってあった花瓶を棚の端まで少しずつ押していたのだ。気になって立ち上がり、直して、戻ってきて——どのくらい経ったのだろう。ほんの少しのつもりだったのに。
紙の上に、文字が積み重なっていた。
――マリン?
――マリン。
――マリン、返事して。
マリンは紙を見て、少し固まった。それから、急いで筆を取った。
――ごめんシズク! 花瓶が風で落ちそうになってて、ちょっと席外してた。
返事が来るまで、いつもより少し長かった。
――……そう。
――心配させた?
また少し間があった。
――してない。
明らかにしていた。マリンは苦笑しながら書いた。
――シズク。
――なに?
――パニックになった?
返事が来ない時間が、今度はシズク側から生まれた。少し長かった。
――なってない。
――本当に?
――……だけ。
マリンはしばらく、その3文字を見ていた。少しだけ。姉なりの、かなり正直な告白だった。
――ごめん。
――謝らなくていい。花瓶が悪い。
――花瓶は悪くないよ。
――じゃあ、風が悪い。
マリンはこらえきれずに少し笑った。声は出さなかったが、肩が揺れた。
――私は大丈夫だよ、シズク。
――分かってる。
――本当に?
――……分かってるわよ。
筆の先の温度が、少し落ち着いてきた気がした。
――おやすみ、シズク。今度こそちゃんと眠って。
――おやすみ。窓閉めなさい。夜は冷える。
――はい。
光が、静かに消えた。
マリンはしばらく、紙の上の文字の痕跡を見ていた。マナが薄いせいか、文字は早く滲んで消えていく。最後に残った「おやすみ」の2文字が、少しして跡形もなくなった。
廊下でレオンの足音が止まった。扉を叩く音。
「マリン、まだ起きていたのか?」
「うん」とマリンは答えた。「シズクと話してた」
扉が開いて、レオンが入ってきた。執務の疲れが顔に出ているが、マリンを見る目はいつも通りだった。
「シズク王妃から? 何か問題が?」
「ぜんぜん」とマリンは言った。「ただのおやすみの話。あと、シズクがちょっとパニックになった話」
「……パニック?」
「花瓶が風で落ちそうになって、私がちょっと席外したら、通信が途切れたと思って焦ったみたい」
レオンは少し考えてから「それは心配するだろう」と言った。責める風でもなく、笑う風でもなく、ただそのままの言葉だった。
「姉君はあなたのことになると冷静でいられないのだろうな」
「そうなの」とマリンは言った。「でも、それが好きなんだよね。私も」
レオンは何も言わなかった。ただ、少し表情が緩んだ。執務室で仕事をしている時とも、朝の公務の顔とも違う、ここでだけ見せる緩み方だった。
「窓、閉めてあるか?」
「さっき閉めた。シズクにも言われた」
「竜の国の王妃と、私とで言うことが同じか」
「2人とも心配性なんだよ」
マリンは立ち上がって、窓に手をかけた。鍵がちゃんとかかっているか確かめる。帝都の夜風はもう届かない。
紙の上の文字は、もうすっかり消えていた。でも、3回呼ばれた名前の感触は、まだ手の先に残っている気がした。
「レオン様」
「なんだ?」
「ここ、だんだん慣れてきたわ」
レオンはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「そうか」
「うん。まだ天井が高すぎるけど」
「いずれ慣れるさ」
「本当に?」
「ああ、私が保証する」
マリンは少し笑った。声に出して、今度は。隣室でミレーユが気配に気づいたかもしれない。
「おやすみ、レオン様」
「ああ。おやすみ」
帝都の夜は、竜の国より静かだった。でも今夜は、その静けさが少しだけ違う音に聞こえた。
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