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第四話:魔力減退の兆し

 竜の国の南東、テラ母様の所領に近い辺境の農村へ向かう道は、この季節なら緑に溢れているはずだった。


 シズクは馬の背から、街道の両側を見ていた。


 おかしい。


 麦の穂が、垂れていない。茎が細く、葉が黄ばんでいる。収穫期まであと1か月もないのに、畑は去年の半分も育っていなかった。所々に魔導ポンプの残骸が見えた。停止したまま錆びついている。いつから動いていないのか。


「シズク王妃様」


 御者台から声がかかった。「着きました」


 村の入り口に、人影が2つあった。


 1つは大柄な女性。ソイルだった。テラ母様の所領を視察するという名目で、シズクより1日早くここに入っていた。もう1つは——白い祈り衣を纏った、細い娘。アルテミスだった。


「姉様、来てくださったんですね」


 アルテミスの声は、いつもの神殿での穏やかさとは少し違った。疲弊していた。目の下に隈がある。いつここに来ていたのか。シズクが馬から降りると、アルテミスは深く頭を下げた。


「ご報告が遅くなりました。1週間前から魔導ポンプが止まり始めて——私の祈りでは、もう……」

「詳しく聞かせてちょうだい」


 シズクはアルテミスの隣に並んで歩き出した。


 村の中心にある広場に、農民たちが集まっていた。老人、女性、子供。男手の多くは別の農村へ出稼ぎに出ているのだろう。残った人々の顔に共通しているのは、疲労ではなく、不安だった。先が見えない時の顔だった。


 広場の端に、止まった魔導ポンプがあった。


 シズクはしゃがんで、ポンプの側面に触れた。魔力の残滓を辿る。わずかに感じ取れる——でも薄い。回路は生きている。マナの供給が足りないだけだ。


「大気中のマナ密度が、この地域だけ特に低い」とシズクは立ち上がりながら言った。「ポンプの故障ではない」


「そうなんです」とアルテミスが続けた。「祈りを捧げると、一時的に光が戻ることはあります。でも翌朝にはまた消えている。器に水を注いでも、底に穴が開いているみたいで」


 底に穴。うまい表現だ、とシズクは思った。と同時に、アクア母様の言葉が蘇った。回復が止まって、また密度が下がり始めている。あの夜、噴水の前で聞いた話が、今この枯れた畑として目の前にあった。


「祈りを続けてくれているの?」

「はい。毎朝、夜明け前から……」


 17歳の娘が、国を代表する聖女が、毎朝夜明け前から祈り続けている。それなのに、効果が出ないとは……。


 シズクは何も言わなかった。言葉より先に、ソイルが動いた。


「アルテミス」ソイルがアルテミスの肩に大きな手を置いた。「あなたの祈りは無駄じゃない。この村の人たちが今もここにいるのは、あなたが1週間踏ん張ってくれたからよ」


 アルテミスが小さく頷いた。その目が、ほんの少し緩んだ。

 シズクは畑を見渡した。枯れかけた麦。止まったポンプ。不安そうな村人たち。


 これが、これから自分たちが向き合わなければならない現実だ。


「ソイル姉様」とシズクは言った。「話があるわ」




 村の集会所を借りた。


 木の長机に、ソイルが設計図を広げた。大判の羊皮紙に、びっしりと数字と図面が書き込まれている。シズクは身を乗り出してそれを見た。


「機械式の水路!?」


「ええ」とソイルは言った。「テラ母様と一緒に研究してきた。魔力を使わない、水の流れそのものを制御する仕組みよ。高低差と水圧だけで、村全体に水を届けられる」


 シズクは図面を追った。取水口の位置、傾斜角の計算、分岐路の配置。魔導の回路が1つもない。全部、物理的な構造だけで動く設計だった。


「これは——本当に魔力なしで動くの?」

「動くわ。もう小さな試作を3つ作って検証してある。テラ母様の所領の東の農村で、去年の夏から稼働しているわ」


 シズクは顔を上げた。


「去年から? 知らなかった……」

「まだ実験段階だったから、広めていなかったの。でも今年の状況を見て——もう待てないと思った」


 ソイルの声は穏やかだったが、その目には確信があった。争いを嫌うが、怒ると誰も手がつけられない、とよく言われる。今のソイルは怒っていないが、静かに燃えていた。


「予算はどのくらいかかるの?」


「初期投資は大きい。でも」ソイルは図面の端を指した。「ユリウスが試算してくれた。3年で元が取れる計算よ。法整備の方も、もう草案ができてる」


「ユリウスが!?」

「昨夜、書簡が来たわ。法的な枠組みはほぼ整っている、あとは王妃の決裁が必要、って」


 シズクは思わず苦笑した。


 自分が視察に来ることを見越して、ユリウスはすでに動いていたのだ。ソイルも同じだ。2人とも、シズクが「決断する」ために必要なものを、黙って揃えておいてくれていた。


「この設計図を、まずこの村から始めて——」


「もう村長には話してある」とソイルは言った。「着工できる体制は整っている。あとは、公式に動かす許可が要るの」


 シズクは設計図に視線を落とした。


 魔力に頼らない水路。機械式の灌漑。かつての竜の国には存在しなかったものだ。でも今、目の前の枯れた畑がはっきりと示している。これが必要だと。


「分かった」とシズクは言った。「正式に認可する。ソイル姉様の設計で進めて」


 ソイルが小さく頷いた。それだけだった。派手な喜び方はしない。でもその目が、少しだけ温かくなった。



 アルテミスが窓の外を見ていた。枯れかけた畑が見える。


「これが完成すれば」とアルテミスは静かに言った。「魔力がなくても、水が届く」


「そう」とソイルは答えた。「祈りに頼らなくていい仕組みを作る。それが今の私たちの仕事よ」


 アルテミスはしばらく黙っていた。それから、小さく息をついた。安堵ではなく、何かを受け入れたような息だった。


 ---





 問題は、翌日に起きた。


 王都に戻ったシズクが認可の手続きを始めると、伝統派の竜族長老たちが執務室に押しかけてきた。


「シズク様、機械式の水路とは何事か!?」


 長老の1人が声を荒げた。外見は壮年に見えるが、全員が数百年を生きてきた古老だ。この国が今とは比べものにならないほどマナに満ちていた時代を、自分たちの肌で知っている女性たちだった。その目には、「なぜ若い王妃がこのような決定を」という感情が、隠しきれずに滲んでいた。


「機械などという人間やドワーフの真似事に頼るのは、竜族の誇りを汚す行為です。マナは必ず回復する。そのような拙速な判断は——」


「拙速ですか?」とシズクは繰り返した。


 静かに言ったつもりだった。でも声が、わずかに高くなった。頭の中で何かが早くなる。反論の言葉が次々と浮かんで、優先順位が崩れていく。アクア母様から受け継いだパニック癖が、顔を出し始めていた。


「今この瞬間も、辺境の農村で作物が枯れています。魔導ポンプは止まっています。アルテミスが1週間、毎朝夜明け前から祈り続けても回復しない。それでも待てというのですか。誇りで民は——」


「王妃様」


 ソイルが、シズクの傍らに立った。

 大きな手が、シズクの背中にそっと触れた。押すのではない。ただ、そこにある、という触れ方だった。


 シズクは止まった。


「長老方」とソイルが静かに言った。「テラ母様の所領で、昨年から機械式の水路が稼働しています。今年の収穫は、周辺の農村より3割多い見込みです。数字をご覧になりますか」


 長老たちが顔を見合わせた。


「それは——」

「竜族の誇りを汚すためではなく、竜族の民を守るために作った仕組みです。テラ母様もそのお考えで、長年研究を続けてこられた」


 テラ母様の名前が出ると、長老たちの声の温度が変わった。土の竜族の原点とも言える女性の名前は、この場では別の重みを持っていた。数百年を生きてきた古老たちも、その名前の前では少し姿勢が変わる。


 沈黙が落ちた。


「……継続的な審議が必要だ」と長老の1人が言った。完全な撤退ではない。でも、今日は引く、という意味だった。


 長老たちが退室した。


 扉が閉まると、シズクは息をついた。肩の力が抜けて、少しだけ手が震えているのに気づいた。


「ありがとう、ソイル姉様」


「どういたしまして」とソイルは言った。それから、少し間を置いて続けた。「大丈夫よ、シズク。あなたは正しいことをしている」


「でも、うまく言えなかった」

「言えてたわよ。ただ、少し速かっただけ」


 ソイルがシズクをそっと引き寄せた。大きな腕が、背中を包む。


「大地を耕すのは、急がなくていいの。土は、時間をかけた分だけ応えてくれるから」


 シズクはしばらく、ソイルの腕の中にいた。執務室の窓から、午後の光が差し込んでいた。


 やがて顔を上げた。目が、少し赤かったかもしれない。でも声は、もう揺れていなかった。


「ユリウスに書簡を出す。認可の手続きを正式に進めて」

「うん」

「長老たちには、数字で説明する。感情では動かない人たちだから、データを積み上げる」


「それがシズクらしい」とソイルは微笑んだ。


 シズクは机に向かい、ペンを取った。


 辺境の農村で、アルテミスがまた今朝も祈っているかもしれない。その祈りが届く仕組みを、自分たちが作る。魔法ではなく、法と数字と、機械式の水路で。


 それが今の、自分たちの仕事だった。


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