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第三話:イゾルデの鏡

 帝都の皇宮は、美しかった。


 黒と銀の石で組まれた廊下、天井まで届く窓から差し込む鋼色の光、整然と並ぶ柱の列。何もかもが精緻で、隙がなく、冷えていた。竜の国の白亜の宮殿が午後の陽光を受けて温かく輝くとすれば、ここは月光を閉じ込めた建物だった。美しいが、触れると冷たそうだった。


 マリンは廊下を歩きながら、笑顔を保つ練習をしていた。


 昨日の鉄の門からここまで、ずっとそうしていた。笑顔を保つ。視線を逸らさない。足を止めない。3つだけ守れば、とりあえず今日は乗り切れる。そう自分に言い聞かせながら歩いていた。


「マリン殿下」


 廊下の角で、侍女に呼び止められた。


「イゾルデ皇妃様が、殿下をお部屋にお招きしたいとのことでございます」


 マリンは少しだけ足を止めた。


 イゾルデ皇妃。皇帝レオナルドの妻であり、水の竜族の出身。レオンから聞いていた。政略結婚として帝国に嫁ぎ、20年をかけてこの宮廷に根を張ってきた女性だと。昨日の戴冠式でも、あの柔らかな目でマリンを見ていたのを覚えている。


「伺います」とマリンは答えた。


 イゾルデの私室は、皇宮の中でも珍しく日当たりのよい部屋だった。銀と黒が支配するこの宮殿の中で、ここだけが暖色の天幕と水色の調度品で満たされていた。窓の外には中庭の噴水が見え、水音が静かに届いてくる。意図的に作られた、この宮殿の中の「外」のような場所だった。


「よく来てくださいました」


 イゾルデは鏡台の前に座っていた。銀色に近い青白い髪、水面のように静かな瞳。竜の国の水属性の竜姫たちとは違う、より深い海の色をした女性だった。40代のはずだが、竜族の時間の流れは人間と違う。


「座って」とイゾルデは鏡越しに微笑んだ。「堅苦しいことは抜きにしましょう。今日はただ、少し話したかっただけだから」


 マリンが腰を下ろすと、イゾルデはそっと手を伸ばしてマリンの髪を梳き始めた。


「緊張してる?」

「……少し」


「正直ね」とイゾルデは笑った。「それでいいと思う。緊張していないふりをする必要はないわ」


 鏡に映る2人の顔を、マリンはじっと見た。水の竜族の先輩が、自分の髪を梳いている。


「私が来た時も、同じだったわ」


 イゾルデの手が、静かに動く。


「今あなたが感じていること——異物であること、壁の厚さ、笑顔を保つ疲れ——全部、私も感じた。20年前のことだけど、昨日のことのように覚えているの」

「イゾルデ様も、最初は?」

「そう。レオナルドとは政略結婚だったもの。愛情なんて、最初からあったわけじゃない」


 マリンは鏡の中のイゾルデを見た。


「今は、違うんですか?」

「今は違うわ」とイゾルデはあっさり言った。「20年一緒にいれば、人は変わるわ。彼も私も。でも最初の数年は——本当に、孤独だった」


 梳かれるたびに、少しずつ肩の力が抜けていく気がした。


「竜人としての誇りは、捨てなくていい」とイゾルデは続けた。「捨てようとすると、逆に足元が崩れる。誇りを持ったまま、この宮廷の中で呼吸する方法を覚えるの。支配するのではなく、共生する。それが、私がここで学んだことよ」


「具体的には、どうすればいいんでしょう?」


「まず、味方を見つけること」イゾルデは静かに言った。「敵を作らないことより、味方を1人増やす方が大事。この宮廷には、旧貴族の圧力に不満を持っている人間も必ずいる。そういう人を見つけて、丁寧に、時間をかけて繋がっていく」


 鏡の中で、2人の目が合った。


「あなたには、いいメイドがいるわね」とイゾルデは言った。「昨日の門でのことは、もう宮廷中に広まっているわ」


 マリンは少しだけ笑った。


「ミレーユは、私が思っている以上のことをいつもやってのける人なんです」

「それは、心強い!」


 イゾルデは最後にもう1度、丁寧に髪を梳いてから手を止めた。


「マリン。焦らなくていいの。私に20年かかったからといって、あなたにも20年かかるとは限らない。ただ——孤独に耐えようとしないで。耐えるより、繋がる方を選んで」


 窓の外の噴水が、静かに水を吐いていた。




 レオンが政務に出た午後、マリンは自室の窓辺に座っていた。


 イゾルデの言葉をまだ反芻しながら、中庭を見下ろしていた。味方を見つける。丁寧に、時間をかけて。


「マリン様、少しよろしいですか」


 ミレーユが部屋に入ってきた。普段の穏やかな表情ではなく、情報を伝える時の、少し目が鋭くなった顔をしていた。


「昨日から、3名の貴族の動きが気になっています。ヴェルダン卿の派閥に近い方々で、今朝だけでマリン様の居室の前を合わせて5回通っています。偶然にしては多い」

「名前は?」


 ミレーユが3名の名を告げた。マリンは聞きながら、脳裏でイゾルデの言葉と照合した。敵を作らないことより、味方を1人増やす方が大事。ではこの3名は——敵か、それとも様子を見ている者か。


「もう少し調べたいのですが、私の動ける範囲には限界があります」

「分かってるわ、ミレーユ」


 マリンは立ち上がった。


 ドアを開けると、廊下には何もなかった。石の柱、石の床、石の壁。昼間の光が均等に差し込んでいた。


 マリンは廊下に出て、ごく自然に歩き始めた。散歩のように、何も考えていないように。


 柱の影が、わずかに揺れた。


「聞こえてる」


 影の中から、低い声が返ってきた。声だけで姿はない。クロノスは最初からそこにいた——マリンが来る前から、ずっと。


「ライオスとシズク姉様の命令で、もうここにいたのね」

「ああ」

「いつから?」

「お前が帝国に入った時から」


 マリンは柱の前で立ち止まり、中庭を眺めるふりをした。


「……久しぶり、マリン」

「昨日、門のところで会ったじゃない」


 影が、一瞬止まった。


「……影の中にいた」

「視線送ってくれたじゃない。ちゃんと気づいてたわよ」


 廊下の角から、くすくすと笑い声が聞こえた。


 白いメイド服を着た娘が、柱の陰から顔を出した。帝国の王宮で働く侍女たちと同じ制服、同じ白いエプロン。ただし、その下から覗く気配は、どこからどう見ても帝国育ちのメイドではなかった。


「リベル!?」

「やっほ、マリン姉様。クロノスお兄ちゃんが昨日バレてると思ってなかったみたいで、さっきまでずっとぷりぷりしてたんだよ」

「言うな」

「事実じゃない」


 クロノスが影から姿を現した。メイド服のリベルと並ぶと、余計に無口さが際立った。マリンはリベルの姿をしみじみと見た。


「それにしても、メイド服似合ってるわね」

「でしょ。ゼファーちゃんに仕込まれたから、所作も完璧なんだ。昨日の朝からここで働いてるけど、誰にもバレてないよ」

「仮にも皇女なのに……」


「その方が動きやすいから」とリベルはあっさり言った。「ゼファーちゃんもそう言ってた。情報は現場にある、って」


 ゼファーに仕込まれた動き方が、こういう形で出るのか、とマリンは思った。平和であれば竜の国の王妃になっていた器の女性が積み上げてきた知恵が、この19歳の娘の中に生きている。


「2人とも、ライオスとシズク姉様の命令ね」


「うん。でも」とリベルは肩をすくめた。「シズク姉様ってば、指示書が5ページもあったんだよ。想定パターンが全部で12通りで、各パターンに対応手順が——」


「それはシズク姉様らしい」


「お前は読んだのか」とクロノスがリベルに聞いた。


「読んだよ。全部」

「……本当か!?」

「失礼な。ちゃんと読んだし、全部覚えた!」


 クロノスは短く息をついた。マリンはそれが彼なりの「かなわない」という表現だと知っていた。


「ヴェルダン卿の周辺を調べてほしい」とマリンは話を戻した。「特に、派閥の中で卿に不満を持っている者がいれば」


「もう動いてる」とリベルが言った。「今朝の厨房当番の時に、若手貴族の奥様方の会話がいくつか拾えた。ヴェルダン卿の派閥でも、温度差がある家が2、3あるみたい」


「クロノス、夜の動きを押さえてもらえる?」

「分かった」

「無理はしないで」

「……する必要がない」


 影が、音もなく薄れていく。リベルがその背中に向かってひらひらと手を振った。クロノスは振り返らなかった。それがいつものことだというように、リベルは特に気にした様子もなかった。




 夜になってから、クロノスが戻ってきた。


 マリンの自室に、音もなく。メイド服のリベルがすでに部屋の隅に座っていて、クロノスが入ってくると「お帰り」と短く言った。クロノスは頷いた。


 4人で、声を落として向き合った。


 クロノスの報告は短かったが、密度があった。ヴェルダン卿の派閥の中に、卿の手法に不満を持つ若手貴族が2名いること。どちらも家格は低くないが、旧体制の利権構造から弾かれている者たちだった。卿に従っているのは打算であって、忠誠ではない。


「その2人は、使えると思う」クロノスは言った。「ただし、こちらから動くのは早い。もう少し様子を見る」


「同意見です」とミレーユが静かに言った。「焦って近づけば、ヴェルダン卿に動きを読まれます。まずマリン様が公の場で印象を作ることが先です」


 マリンはイゾルデの言葉を思い出した。味方を見つける。時間をかけて。敵を作らないことより、1人増やすことが大事。


「イゾルデ様も同じことをおっしゃっていた」


「皇妃様はこの宮廷を20年かけて知り抜いておられます」とミレーユは言った。「その助言は、どんな諜報よりも重い」


 リベルが腕を組んで続けた。


「明後日の茶会、例の若手貴族の1人の奥様が来る。今日少し話したけど、感じのいい人だった。マリン姉様が自然に近づきやすいと思う」

「え、もう話したの!?」


「厨房で一緒にお茶淹れながら」とリベルはさらりと言った。「メイドって、貴族の奥様方と話す機会が意外と多いんだよね。ゼファーちゃんが言ってた通りだった。情報は厨房と廊下にある、って」


 クロノスがわずかに目を細めた。呆れているのか、感心しているのか、その表情では判断がつかない。


 マリンは窓の外を見た。帝都の夜は、竜の国より暗い。街の灯りが少なく、空が広く、遠く感じた。


 でも、ここには今、ミレーユがいる。クロノスがいる。リベルがいる。イゾルデの言葉がある。


 単なる嫁入りではない。これは帝国を内側から変えるための、長い仕事の始まりだ。


「明後日の茶会、楽しみにしておく」


 マリンは静かに、しかしはっきりと言った。


「ミレーユ、準備をお願い」

「かしこまりました」


 窓の外で、帝都の風がゆっくりと動いた。リベルの風ではなく、この都市に元から流れている、古い風だった。


 マリンはその冷たさを、もう怖いとは思わなかった。


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