第二話:鋼の都の洗礼
旅立ちの朝は、晴れていた。
皇妃マリンは、それが少し意外だった。もっと曇っていてほしかった、という気持ちがあったわけではない。ただ、こんなに空が青いと、泣けなくなる。泣かなくていいように、空が気を遣ってくれているのかもしれなかった。
王宮の正門前に、人が集まっていた。
兄弟姉妹が全員いた。執務があるユリウスも、天狗族の里から昨夜遅くに飛んできたリオも、普段は影に潜んでいるクロノスも、リベルも、神殿から特別に戻ってきたアルテミスも。六龍姫たちも揃っていた。レヴィア様が腕を組んで空を見上げ、テラ母様が静かに微笑んでいる。アクア母様は少し離れた場所に立ち、マリンと目が合うと、ただ静かに頷いた。言葉はなかった。でも、それで十分だった。
ライオスが最初に口を開いた。
「マリン」
それだけだった。続きが出てこなかったらしく、代わりに大きな手が肩を掴んだ。抱擁ではなく、ただ掴んだ。それがライオスなりの言葉だと、マリンには分かった。
「行ってきます、お兄様」
「……おう」
シズク姉様が隣に来て、小声で言った。「レオン殿下を困らせないようにね」
「姉様こそライオスを困らせないように」
「私は困らせない!」
「いつも困らせてるじゃないですか」
「論理的な指摘は困らせることに入らないわ」
2人して前を向いたまま、小声で言い合った。23年間、こうやって喋ってきた。明日からはこれができなくなる。
ユリウスは短く「道中、お気をつけて」と言った。ソイル姉様は黙ってマリンの両手を一度だけ強く握った。ノアは「嫌になったらすぐ帰ってきてね」と言って、それ以上続けられなくなって横を向いた。クロノスは視線だけを向けて、小さく頷いた。23年一緒にいれば、それがクロノスなりの言葉だと分かる。リベルは「寂しくなったら風で呼んで」と言い、隣でクロノスがわずかに目を細めた。
アルテミスが静かに近づいてきた。神殿から戻ってきた末妹は、いつもの祈りの場と同じ穏やかな表情をしていた。ただその目だけが、堪えているのが分かった。
「お姉様」
「アルテミス。いい子にしてるのよ」
「……帰ってきたら、一緒に祈りましょう」
「もちろん」
アルテミスは小さく頷いて、それ以上は言わなかった。その静けさが、17歳らしくなかった。神殿で過ごした年月が、この子をこういう顔にしたのだとマリンは思った。
「マリンの空は俺が守る!」
上空から豪快な声と突風が降ってきた。リオだった。天狗族の里の戦士たちを引き連れ、翼を広げて正門前に降り立つ。着地の突風でユリウスの書類が舞い上がった。
「リオ、着地の前に一声かけてください」
「細かいことは気にしない!」
頼もしかった。マリンの目が、じわりと熱くなる。
その時、白いエプロンが視界に入った。
リリアだった。メイド隊長官として正装した彼女は、馬車の傍らに立つミレーユのところへ歩いていった。2人は少し離れた場所で、短く言葉を交わした。リリアの表情は穏やかだったが、その目は真剣だった。ミレーユが深く頭を下げ、リリアが静かに頷く。それだけだった。
マリンには聞こえなかった。でも、何が交わされたかは分かった。
少し経って、ミレーユがこちらへ歩いてきた。旅の間ずっとあの固い表情をしていた彼女の目が、今は静かに落ち着いていた。
「行きましょう、マリン様」
マリンは1度だけ振り返った。正門の前に並んだ兄弟姉妹たち。六龍姫たちの色とりどりの衣。青い空。白い王宮。全部を目に焼きつけてから、前を向いた。
馬車の扉を、自分で開けた。
◇◆◇◆◇
帝国の国境に、「鉄の門」と呼ばれる関所がある。
高さ20メートルを超える黒鉄の双柱が天を突き、その間に巨大な格子扉が吊られている。格子の向こうには石造りの要塞が続き、要塞の奥にようやく帝国の平野が見えた。竜の国の白亜の建築とは何もかもが違う。空気の色まで違う気がした。
歓迎の儀式は、格子扉の前で行われた。
出迎えたのは帝国の旧貴族たちだった。礼装に身を包んだ老人たちが列をなし、その中央にレオンが立っている。3日ぶりに見る婚約者の顔は、いつもより少しだけ硬かった。
「よくいらっしゃいました、マリン殿下」
レオンが1歩前に出て、手を差し伸べた。その声は穏やかで、目は真っ直ぐだった。マリンは微笑んで手を取った。
だが、旧貴族たちの視線は違った。
値踏みするような目だった。好奇心ではなく、審査だった。竜族の娘を上から下まで眺め回し、互いに何かを囁き合っている。聞こえないように囁いているつもりだろうが、竜族の聴覚は人間より鋭い。
「イゾルデ様でさえ20年、ようやく慣れてきたところだというのに」
「神を討った英雄王の娘とはいえ、マナが弱まった今となってはトカゲと変わらん」
「皇家の血筋を思えば、これは屈辱だ」
1言1言が、石畳の上に落ちるように届いた。
マリンは笑顔を保ったまま、足が止まりそうになるのを感じた。体の中心から何かが抜けていくような感覚。竜の国では感じたことのない感覚だった。イゾルデ様でさえ20年かかった。この壁は、レオンの意志だけでは崩せないほど厚く、長く、深く積み上がっている。
レオンが旧貴族たちに向き直った。
「皆さん、本日はお集まりいただき——」
「殿下、少々よろしいでしょうか」
老貴族の1人が割り込んだ。白髪の、肥えた男だった。目だけが細く、冷たかった。
「竜族の方々の入国に際して、確認すべき手続きがございます。慣例に従い、まず我々が——」
「手続きは済んでいます」
レオンの声が、わずかに低くなった。
「マリン殿下は私の婚約者であり、今日からこの帝国の皇妃です。慣例がどうであれ、それが変わることはありません」
老貴族は唇を引き結んだ。引き下がったわけではない。ただ、今は引いただけだ。その目が語っていた。
マリンはレオンの横顔を見た。彼は自分を守ろうとしている。でも、この厚い壁を彼1人で崩すことはできない。それも分かった。
微笑みを保つことだけに、全神経を使っていた。
老貴族が再び口を開こうとした、その瞬間だった。
「少しよろしいでしょうか」
ミレーユが前に出た。旅装のまま、銀のトレイを小脇に抱えている。何者だという顔が旧貴族たちの間に広がった。
「ヴェルダン卿」
白髪の老貴族——ヴェルダン卿の目が、細くなった。
「昨年の秋、東部の収穫が思わしくなかったようですね」ミレーユは穏やかに、事務的な口調で続けた。「ご領地のアルフ川沿いの農村では特に。ただ、帳簿の数字を拝見しますと、不思議なことに卿のご収入はその年も大変安定しておられる。東部商会との取引が、うまくいっておられるようで」
ヴェルダン卿の顔が、わずかに強張った。傍目には分からない変化だ。だがミレーユはその変化を見届けてから、さらに静かに続けた。
「ご子息もご健勝とのこと、何よりでございます。慈善のお仕事も、熱心に続けておられるとか」
沈黙が落ちた。
ヴェルダン卿の隣に立つ初老の貴族が、わずかに青ざめた。彼もまた、何かを知っている顔だった。2人の間に走った視線を、ミレーユは表情を変えずに受け止めた。
「帝国の皆様には、これからもマリン様を温かくお迎えいただけますと幸いでございます。皆様のご厚情は、竜の国の王家にも必ず届いております。——詳しくは、申し上げるまでもございませんね」
最後の1文は、ヴェルダン卿だけに向けられた言葉だった。
ヴェルダン卿は唇を何度か開閉させ、結局何も言えずに後退した。列をなしていた旧貴族たちが、さざ波のように左右に割れた。
鉄の門への道が、開いた。
上空から突風が吹き下ろした。リオだった。天狗族の戦士たちを引き連れ、堂々と旋回しながら高度を下げてくる。その翼が起こす風が、旧貴族たちの礼装の裾を派手にめくり上げ、白髪を乱した。帝国の傲慢さを吹き飛ばすような、豪快な風だった。
「マリン、行くぞ!」
マリンは1度だけミレーユを見た。
ミレーユはすでに視線を前に戻していた。何事もなかったような顔で、銀のトレイを持ち直している。この10年でメイド隊の次期長官候補とまで言われるようになった女性の、これが仕事の顔だった。
旅の間ずっとあの固い表情で何を考えていたのか、今なら分かる。東部商会、アルフ川沿りの農村、ご子息の慈善事業。1つ1つは些細な言葉に聞こえる。しかしヴェルダン卿には、自分の何が知られているかが正確に伝わる言い方だった。シェイド様やゼファー様が長年かけて築いてきた網の目から引き出された、確かな情報のはずだ。
竜の力ではない。知恵と、網の目と、覚悟だった。
さっき正門でリリアがミレーユに何かを伝えていた。きっとこういうことだったのだ。マリン様をよろしく頼む、と。
背筋が、すっと伸びた。
ここは帝国だ。家族はいない。魔法も届かないかもしれない。でも、自分には知恵がある。隣にミレーユがいる。上空にリオがいる。そして、前にレオンがいる。
マリンは鉄の門に向かって歩き出した。今度は足が止まらなかった。
「行きましょう、ミレーユ」
「はい、マリン様」
2人の足音が、石畳に揃って響いた。
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