第一話:黄金の継承
王妃シズクは、夫の背中を見ながら歩いていた。
深紅の礼装に儀礼用の炎の剣。広い肩。1歩ごとに前だけを見る、あの歩き方。今日のライオスは王に見えた。25歳の、竜の国の新しい王に。
歓声が、王都を揺らしていた。
石畳の大通りを埋め尽くす民衆は押し合い、身を乗り出し、声の限りに叫んでいる。花弁が空から降り注ぎ、赤と金と白の旗が幾重にも翻る。風が通るたびに花の香りと人いきれが混ざり合い、街全体が1つの生き物のように脈打っていた。
行進の先頭を行くのは、シリウス・フレイムハートとノア・フレイムハートだ。
軍総司令シリウスは黒と金の礼装に身を包み、大通りの中心を歩く。婿入りしてフレイムハートの家名を継いだ今も、その体躯には出自の家名など必要としない種類の威厳がある。10年以上の実戦と鍛錬が刻んだ肩幅と、1歩ごとに石畳を確かめるような足取り。隣を歩くノアは夫より頭1つ小さいが、母レヴィア様譲りの緋色の瞳は大通りの群衆を一身に受け止めながら一切揺れない。
「シリウス様ー!」
「ノア副司令!」
「フレイムハート家、万歳!」
歓声が次々と降り注ぐ。シリウスは視線を正面に保ったまま顎を引いて応える。礼のつもりだが、笑顔になっているかどうかは本人の関知するところではなかった。
「……また背中が固まってる」
ノアが口元だけで囁いた。
「民に笑いかけるのが式典の作法って、何度言えばわかるの」
「俺は軍総司令だ。愛想を売る仕事じゃない」
「せめて口角だけでいいから上げて」
シリウスはしばらく前を向いたまま黙っていた。それから、ほんのわずかに口角が動いた。ノアが満足そうに鼻を鳴らす。群衆の中から黄色い歓声が上がった。
シズクは2人の背中から視線を前に戻し、隣のライオスを横目で見た。
「……見てるか?」
口を動かさずに、ライオスが呟く。
「何を?」
「民の目だ。俺たちを見てる奴らの半分は、背後を見てる」
シズクは答えなかった。でも、ライオスの言葉は正確だった。
群衆の視線の多くは行進の先頭の2人に注がれている。あるいは、もっと後方へ。ライオスとシズクの背後に続く、六龍姫たちの列へ。レヴィア様の緋色の髪が風に揺れるたびに群衆がどよめく。アクア母様の青銀の衣が陽光を弾くたびに歓声の色が変わる。25年の統治が積み上げた信頼と、伝説の厚みが、そのまま眼差しとなって降り注いでいた。
ライオスは不敵に笑った。唇を引いて、前を向いたまま。笑えている。それは確かだ。でも笑いながら思っていた。
(この歓声は、父上のものだ。まだ、俺のじゃない)
シズクには、その横顔でわかった。23年間、ずっとそうだったから。
◇◆◇◆◇
戴冠式は、王宮の大広間で執り行われた。
天井まで届く白大理石の柱が12本、祭壇を囲むように立ち並び、その1本1本に六龍姫それぞれの属性を象徴する旗が下がっている。炎、水、土、風、光、闇。6色が並ぶと、それだけで王宮の空気が重くなる。かつての戦乱を知る臣下たちは、この旗の列を見るたびに反射的に背筋を伸ばした。
列席者は500を超えていた。グランテェリア帝国からは皇帝レオナルドと皇妃イゾルデ、そして皇太子レオン。辺境連合の新総帥ガイア。獣人の長老評議会、エルフの里の使節、ドワーフの鍛冶師連盟。これだけの顔が1堂に会するのは、かつての世界統合審判以来だと、どこかで誰かが囁いていた。
ヒカルから冠を授けられる瞬間、ライオスは父の指先がわずかに震えていることに気づいた。老いではない。愛する息子を修羅の道へ送り出す父の、深いところから来る揺らぎだった。
大広間が1瞬だけ完全に静まり返る。それから、嵐のような拍手と歓声が起きた。
シズクの戴冠はその後、ほとんど間を置かずに続けられた。冠が頭に載せられた瞬間、思ったよりも何も感じなかった。重さはある。でもそれだけだった。もっと何かが変わる気がしていたのに。
祝宴が始まると、大広間の空気が一変する。レヴィア様が笑い、テラ母様が子供たちを追いかけ、セフィラ母様が給仕の銀盆から菓子を盗んでゼファー母様に叱られていた。六龍姫が揃うと、いかなる格式も1時間ともたない。それは25年変わらない真実だった。
シズクは杯を手に広間の端から宴を見渡し、自然と1つの場所に目が止まった。
マリンがいた。帝国の皇太子レオンと並んで立ち、何かを話している。淡い青の衣装、伸びた背筋、柔らかな微笑み。どこから見ても皇太子妃になる人の顔だった。
シズクは、その顔を知っていた。
唇の端がほんの少しだけ力んでいる。あれは緊張している顔だ。ずっと双子でいたから、わかる。わかってしまう。
レオンが何か言い、マリンがくすりと笑った。その笑みは自然だった。演じたものではない。シズクはそれを確認して、わずかに息をついた。
少し離れた場所でレオナルド皇帝とイゾルデ皇妃が並んでいた。2人は仲睦まじく並び、ふとイゾルデの目が息子とマリンへ向いた。水の竜姫として、同じ竜族として、この国から嫁いでくる娘を見るような目だった。それを見てシズクは、マリンが行く場所がまったくの異国ではないと、初めて少し思えた。
宴の中心では、ヒカルがアクアと並んで立っていた。2人は静かに、同じ方向を見ている。その視線の先には、シズクとマリンがいた。シズクはその視線に気づいて、父と目が合った。ヒカルは何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。それだけだった。
◇◆◇◆◇
祝宴が深夜に差し掛かる頃、シズクは王宮の中庭に出た。
アクア母様に呼ばれたのだ。ただ、母様に呼ばれると断れない。それはシズクが物心ついた頃からずっとそうだった。
中庭の噴水は月光の中で静かに水を吐いていた。水の放物線が描く頂点は、わずかに低い。シズクはそれに気づいて、立ち止まった。設計値との誤差は目測で数ミリ。こういう細部が、いつも母様の目には入る。
「気づいた?」
後ろから、アクアの声がした。
「大気中のマナが薄いせいですか?」
「そうよ。今日みたいな日に噴水を稼働させると、ちょうど分かりやすいの……」
アクアは隣に立ち、噴水を見た。青銀の衣が夜風に揺れる。口調は穏やかだったが、次の言葉は穏やかではなかった。
「神を討ったあと、しばらくマナが使えない時期があったのは覚えているでしょう。空気中のマナ密度が急激に乱れて、世界が新しい秩序に適応するまでの数年間。あなたはまだ子供だったけれど……」
「覚えています。魔法の練習をしても、何も起きない日が続きました」
「その後は少しずつ回復してきた——私はずっと測定を続けていたから、分かるの。世界が新しい均衡を見つけたのだと思っていた」アクアは一拍置いた。「ところがここ数年、その回復が止まって、また密度が下がり始めている」
シズクは噴水を見たまま、黙っていた。
「単なる揺り戻しなのか、地脈そのものの変動なのか、まだ分からない。仮説の段階よ。確証はないわ」
「でも今夜、私にお話されました」
「それは、あなたが今日、王妃になったから」
アクアが、シズクを見た。宴の場で見せる穏やかな母の顔ではなかった。25年間この国の調律を担ってきた、水の竜姫の目だった。
「知識として持つのと、王妃として背負うのは違う。マナが細る世界で民を調律し続ける責任を、今日からあなたが負った。それは私やレヴィアが肩代わりできるものじゃないの」
中庭に、沈黙が落ちた。
遠くから宴の音楽が届く。レヴィア様の豪快な笑い声、子供たちの歓声。あの賑やかさと、この静寂が、同じ夜の中に存在していた。
シズクは噴水を見た。低い放物線。一度消えて、戻ってきて、また細り始めている弧。
「母様」
「なに?」
「マナが尽きても、双子の絆は尽きませんか?」
少しの間があった。アクアの表情が、わずかに緩んだ。王妃の顔ではなく、母の顔に戻った——ほんの一瞬だけ。
「私とレヴィアの絆が尽きたか、あの人に聞いてみなさい」
シズクは噴水を見たまま、頷いた。
夜空には星が出ていた。帝国の方角がどちらかは、シズクにはわかる。いつもわかる。
中庭に1人残り、シズクはもう1度噴水を見た。弱い弧。でも、まだ水は上がっている。
背負う。それだけだ。
マナが細るなら細るで、その中で民を守る方法を考える。ライオスが前に出るなら、自分が支える。マリンが帝国で1人で立つなら、絶対に孤立させない。それが、今日から自分に課された仕事だ。
怖くないとは言えない。でも、怖いまま立つことなら、できる。
遠くで、宴の音楽がまだ続いていた。
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