第二十三話:帝都の朝
戦いが終わった翌朝は、拍子抜けするほど静かだった。
マリンは皇宮の自室の窓から、帝都を見渡した。昨夜まで炎が上がっていた北部の大通りが、朝の光の中に静かに沈んでいた。瓦礫の片付けが始まっていた。市民が出てきていた。屋台を立て直している者もいた。
人々の日常が、もう始まっていた。
「マリン様」とミレーユが来た。
「朝食の用意ができています。それと、イゾルデ様がお時間をいただけないかと」
「今すぐ行きます」
イゾルデの私室は、皇宮の南側にあった。
マリンが扉を開けると、イゾルデは窓際の椅子に座って茶を飲んでいた。向かいにもう一脚、椅子が用意されていた。
「座りなさい」
マリンは座った。ミレーユが茶を注いで、静かに下がった。
「体は大丈夫?」とイゾルデは聞いた。
「大丈夫です。少し筋肉痛ですが、動けます」
イゾルデはマリンをしばらく見ていた。それから、少し遠い目をした。
「私が若い頃——帝国に来る前、竜の国にいた頃の話だけれど。完全竜化を一度だけやったことがある。3日間、起き上がれなかったわ」
「3日間!?」
「それも、ユニゾンブレスなしで、ただ竜化しただけで、ね」とイゾルデは苦笑いした。
「貴女は昨夜、複数回の完全竜化と、二元のユニゾンブレス、さらに五元から六元への移行もやった。それで翌日に動けているというのは——」
イゾルデは少し間を置いた。
「若さだけでは説明がつかない。フロストヴィーナの血ね。アクア様の直系というのは、そういうことなのかもしれないわね」
マリンは少し驚いた。フロストヴィーナ——水の竜族の中でも、特別な血統の名前だ。アクア母様がその直系で、自分とシズクに受け継がれている。
「私はそれほど意識したことは——」
「意識しなくていい」とイゾルデは言った。
「ただ、同じ水の竜族として、貴女に何かを感じているということを伝えたかったの。20年帝国にいて、私には届かなかった場所に、貴女は半年で届いた。血の力だけじゃない。でも——血の力も、確かにあるのよ」
2人はしばらく茶を飲んだ。
窓の外で、帝都の朝が続いていた。
「イゾルデ様がいなければ、私はここまでやれませんでした」とマリンは言った。
「イゾルデ様が20年かけて耕してきた土があったから、私が種を蒔けたのです」
「あら、上手いことを言うわね」
「本当のことですわ」
「水の竜族は、元来言葉が上手いの」とイゾルデは言った。「アクア様もそうだった」
2人はまた、少し黙った。
「マリン」とイゾルデは言った。
今日は珍しく、様をつけなかった。
「はい」
「この国は、貴女の国でもある。忘れないで」
マリンは答えなかった。でも、胸の中に何かが落ちた。半年間、ずっと「帝国に来た竜族」だと思っていた。でも——この国は、私の国でもある。
「ありがとうございます、お義母様」とマリンは笑顔で返した。
◇◆◇◆◇
昼前に、クロノスとリベルがマリンの部屋に来た。
「俺たちは、今日帰る」とクロノスは言った。相変わらず必要最低限の言葉だった。
「ありがとう。来てくれて。あとたくさん助けてくれて」
クロノスは何も言わなかった。でも、小さく頷いた。それがクロノスの精一杯だと、マリンには分かった。
「リベル」
「なぁに?」
リベルの目が少し赤かった。昨夜から何度かそういう顔をしていた。
「また来てね」
「当然でしょ」
「今度はもっと楽しい用件で来るわ。ミレーユに褒めてもらいに来るかもしれないよ!」
「最大の歓迎するわ。約束する」
クロノスとリベルが廊下を歩いていく。リベルが振り返った。振り返って、手を振った。それから、また前を向いた。クロノスは一度も振り返らなかった。でも——廊下の角を曲がる直前に、少しだけ歩調を緩めた。マリンにはそれが、クロノスなりの別れだと分かった。
ミスティがいなくなったのは、昼過ぎだった。
最初に、気づいたのはやはりミレーユだった。
「ミスティ様が見当たりません」
「荷物は?」
「部屋に何も残っておりませんでした」
「……そういう娘よね」とマリンはため息交じりに言った。
窓の外を見た。帝都の大通りを、人々が行き交っていた。
あの人波の中のどこかに、眼鏡をかけた占い師が溶け込んでいるのかもしれない。
あるいは、もうとっくに帝都を出ているのかもしれない。
机の上に、書き置きが一枚あった。
——次に会う時は、もっと良い知らせを持ってくる。占いで見えてるから。ミスティ——
マリンはその紙を、丁寧に折りたたんだ。
◇◆◇◆◇
午後、今度はレオンが来た。
「少し歩かないか」とレオンは言った。「皇宮の庭なら、静かだから」
帝都の皇宮の庭は広い。まさに、この国の発展を感じさせる荘厳さだ。
手入れされた樹木が並んで、大きな噴水があった。
幸い戦いの痕跡は、ここには届いていなかった。
2人で石畳の小径を歩いた。
「レオン様」
「なに?」
「私が地下にいる間、何してたの?」
レオンは少し間を置いた。
「……傷の処置をして、父に報告して、軍を動かした」
「それだけ?」
「……それだけではない」
「じゃぁ、何をしてたの?」
「貴女のことを、考えていた」とレオンは言った。「それだけだ」
マリンは少し笑った。
「それは答えになってないわ」
「答えになっている、さ」
「なってない」
「なっている」とレオンは言った。「私が言えることは、それだけだ」
マリンはしばらく黙って歩いた。噴水の音が聞こえた。庭の樹木が、午後の風に揺れていた。
「レオン様」
「なに?」
「私、あなたに帝国を頼みます、って言ったでしょ」
「ああ」
「ちゃんと頼んでよかった」とマリンは言った。「よく頑張ってくれたわ。本当に」
レオンは立ち止まった。マリンも止まった。
「マリン」
「なぁに?」
「また、ああいうことが起きるかもしれない。この先も、貴女を護れない時が来るかもしれない」
「そうね」
「それでも——この国に来てくれて、よかった」
マリンは少し間を置いた。それから、レオンの方を向いた。
「レオン様」
「なに?」
「愛してる」
レオンが固まった。
マリンは続けた。
「さっきの意地悪な質問の答え、これよ。貴方が私のことを考えていたなら——私も、ずっと貴方のことを考えていた。地下にいる間も、ミレーユと作戦を立てている間も、衛兵を説得している間も。貴方が大丈夫かどうか、それだけが気になっていた」
レオンはしばらく何も言わなかった。
それから、マリンの手を取った。
「……私もだ」とレオンは言った。「言葉にするのが遅くてすまなかった」
「遅くないよ」とマリンは言った。「ちょうどいい頃合いだわ」
2人はそのまま歩いた。
手を繋いで、噴水の前を通り過ぎた。
マリンは歩きながら、思った。
半年前、この国に来た時、マリンは怖かった。竜族として受け入れてもらえるか。帝国の皇妃として、やっていけるか。
でも今は、分かる。
竜の姫として、帝国の皇妃として、どちらでもなく、どちらでもある。そしてこの人の隣にいることが、その両方を支えてくれている。
それがマリンの答えだった。
◇◆◇◆◇
夕方、ミレーユが私室に戻ってきた。
「シズク王妃からの個人的な通信です。明日の朝、竜の国へ出発される、と」
マリンは通信を受け取った。
——マリン。元気にしてる? 明日、帰るわ。でも——また通信する。それでいいでしょ。——シズク
マリンは筆を取った。
——シズク。元気にしてる。ここにいるし、待ってるわ。また通信して。——マリン
短い文だった。でも、それで全部だった。
「ミレーユ」
「はい」
「貴女も、お疲れさまでした。本当に」
ミレーユは少し間を置いた。「マリン様こそ」と言った。
「お疲れさまでございました」
それから、いつものように静かに仕事に戻った。
マリンは窓の外を見た。帝都の夕暮れが、石造りの街を橙色に染めていた。昨日まで戦場だった街が、今日はただの夕暮れを迎えていた。
これが日常だ、とマリンは思った。この街の日常の中に、自分は今いる。竜の姫として、帝国の皇妃として。どちらでもなく、どちらでもある。
それでいい。それが、マリンの答えだった。
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