第二十一話:五つの声
——帝都西門外、地平線——
西の空は、まだ暗かった。
夜明けが東から来ている。でも西の地平線は、まだ夜の色をしていた。その暗さの中に、10体の大型魔獣の影が動いていた。地面が揺れている。距離が縮まるにつれて、輪郭が鮮明になっていった。
帝都の西門に、ライオスとノアがいた。辺境の反乱軍を押しとどめながら、背後から迫る魔獣の群れを見ていた。
「シズク」とライオスは魔道通信機に向かって叫んだ。近距離ならこの通信機で会話ができる。
「早くしてくれ。反乱軍と魔獣の両方は、さすがに」
『分かってる。あんた王様なんだから、意地でも持ちこたえて!』
「やってるって!」
『だったら、四の五の言わずどうにかして! あと、今、みんな向かってるから』
「おう、5人で、か?」
『5人いるわよ!』
ライオスは少し黙った。「……頼む」
西門の外に、広大な野原が広がっていた。帝都と辺境の間の、何もない土地だ。ここなら民衆はいない。竜が全力を出せる。
5人が降り立った。
ライオスがシズクを見て、マリンを見て、リベル、アルテミス、ミスティを見た。
「俺たちに何かできることはないか?」
「貴方たちの役割は、私たちが安心してブレスを放てる場所を確保することよ。それが今夜の調律の基盤になるわ」
「……分かった」
シリウスが部隊を後方に下げた。ユリウスが指揮所の位置を調整した。クロノスが影の中から、周囲の安全を無言で確認した。
レオンは帝国軍の前線を整えながら、一度だけマリンを見た。マリンは前を向いたまま、小さく頷いた。
ノアはライオスの隣で、5人の背中を見ていた。
5人が前に並んだ。
地平線の影が、近づいてきていた。
「波長を合わせて。急がない。焦ったら乱れる」
「でも敵が——」
「いいこと、リベル。私とマリンが先に合わせる。その和音を核にして、3人がそれぞれ乗せていく。アルテミスは私たちの和音を聞いてから入って。リベルはその上に。ミスティは全員が揃ってから最後に」
「分かりました」
「当然」
「了解」
「リベルは一番派手な役割ね」
「知ってる。だからやる!」
5人が竜化した。
最初に変わったのは、シズクだった。青白い鱗が全身を覆い、頭から尾まで20メートルを超える水の竜が地に顕現した。氷の翼が広がり、周囲の気温が急激に下がった。呼気だけで白い霧が生まれ、野原の草に霜が降りた。
続いてマリンが変わった。深青の分厚い鱗。シズクより少し小さいが、防御に特化した重厚な体躯が大地を踏みしめた。三元ブレスの消耗がまだ残っているはずだった。でも、揺るがなかった。
アルテミスが変わった。光が先に来た。体の輪郭が輝き始め、金白色の鱗が現れた。翼を広げると光の粒が舞い、夜明け前の暗い野原に光が満ちた。完全竜化の消耗が一番大きいはずの彼女が、それでも静かに、でも確実に立った。
リベルが変わった。半透明の緑の鱗——というより、鱗自体が風でできているように揺れた。翼を広げるたびに空気が動いた。小柄だが動きが速い。5体の中で一番軽やかだった。
最後にミスティが変わった。漆黒の鱗。影が揺れるように体の輪郭がわずかに揺らいでいたが、その揺らぎの中に深い力があった。
5体の竜が、西の地平線に向かって並んだ。
後ろで、ライオスが息をのんだ。シリウスが動きを止めた。ユリウスが書類を持ったまま固まった。
クロノスが影から半分だけ顔を出した。レオンは剣を握ったまま、ただ見上げていた。
一部の帝国の騎士たちが後退しかけた。
シリウスが「退くな」と静かに言った。「あれは、敵じゃない」
野原に静寂が来た。地平線の影が、なお近づいてくる。10体の大型魔獣の咆哮が、空気を揺らした。でも——5体の竜は動かなかった。
最初にシズクのCが鳴った。水の竜の喉から、低く澄んだ音が生まれた。オーボエの主音——鋭く、輪郭が明確で、大気を真っ直ぐに貫いた。野原の霜が、音に反応するように結晶の形を変えた。
そこに、マリンのEが重なった。ファゴットの長三度——深く、柔らかく、シズクの主音を下から支えた。オーボエとファゴット、ダブルリードの姉妹楽器が共鳴した瞬間、空気が変わった。2音の倍音が絡み合って、1音では出せない厚みが生まれた。双子の23年間が、今この瞬間に音になっていた。
アルテミスのGが入った。ホルンの完全五度——温かく、遠くまで届く中低音だった。CとEの和音にGが加わった瞬間、三和音が完成した。安定した、揺るぎない響きだった。祈り続けてきたアルテミスの声が、和音の柱になった。
リベルのB♭(シ♭)が飛び込んだ。ピッコロの短七度——三和音の上に緊張感のある装飾音が乗り、安定した和音に一瞬だけ揺らぎが生まれた。でもその揺らぎが和音に躍動を与えた。風の竜の翼が大きく広がり、西の空気が一斉に動いた。
最後にミスティのDが滑り込んだ。ハープの第九音——深く、神秘的な響きが和音の底に加わった。C、E、G、B♭、D——5音が重なった。
「「「「「五極天響ユニゾン」」」」」
和音が、解き放たれようとしたその瞬間だった。
マリンの体が、わずかに揺れた。
限界だったのだ。
市街地での二元ブレス、三元ブレスのサポート、そして今夜の完全竜化——体力の限界が、和音の揺らぎとして現れた。Eが、わずかにぶれた。
続いてアルテミスのGも揺れた。祈り続けてきた彼女は限界を超えていたのだ。
和音が、崩れかけた。
「——っ」とシズクが息をのんだ。
「マリン姉様!」とリベルが叫んだ。
後ろでノアが動いた。反乱軍の前線から離れた。ライオスが「ノア——」と言いかけたが、もう遅かった。
「私がカバーする!!」
ノアが走りながら竜化した。橙と赤の鱗が燃えるように輝き、炎の翼を持つ竜が野原を蹴って5体の横に飛び込んだ。レヴィアの娘が、今夜初めてユニゾンブレスに加わった。
コルネットのFが高らかと鳴った。トランペットより少し柔らかく、でも芯のある音色だった。レヴィアが持っていた音とは少し違う。でも——同じ血の、同じ火の音だった。Fが和音に加わった瞬間、崩れかけていたEとGが立ち直った。炎の音が、水と光を支えた。
マリンの体が、揺らぎを止めた。
アルテミスのGが、また安定した。
C、E、G、B♭、D、F——6音が重なった。C11の和音が完成した。5音の時より、さらに壮大で、さらに深みがあった。
「「「「「「六極天響ユニゾン」」」」」」
6色の光が螺旋を描いた。青白と深青の水が絡み合い、橙の炎がそれを貫き、半透明の風が包み、金の光が満ち、漆黒の闇が外側を封じた。6つの属性が一本の奔流になって、西の地平線に向かった。
鎮めた。押し流すのでも、叩き潰すのでもなかった。大地に還すように、静かに、でも確実に。まるで嵐が過ぎ去るように、10体の大型魔獣が6色の光の中に包まれて、地平線に溶けていった。
轟音はなかった。ただ——光があって、それが消えた後に、地平線が空になっていた。
西の空の暗さが、少しずつ薄れていた。夜明けが、東だけでなく、西からも来ていた。
6体の竜が、半竜人の姿に戻った。アルテミスが膝をついた。マリンがその隣でゆっくりと座り込んだ。リベルが両手を膝に当てて息をついた。ミスティが眼鏡を直しながら空を見上げた。ノアが腕を組んで、何事もなかったような顔をした。シズクだけが、まだ立っていた。
「ノア」
「なに?」
「ありがとう」
「礼には及ばないって」とノアは言った。「母上がトランペットなら、私はコルネット。少し柔らかい音でも、同じ炎の音よ」
後ろから足音が来た。
ライオス、シリウス、ユリウス、クロノス、レオン——男性陣が全員来た。
「シズク!」
「なに?」
「……きれいだった」
ライオスの声が少し震えていた。
「竜と人間が、一緒に見た夜明けね」
西の地平線が、ゆっくりと明るくなっていった。帝国の騎士たちが、竜族の兵士たちと並んで、その光を見ていた。誰かが「ありがとう」と言った。今度は、1人ではなかった。
レオンがマリンの隣に来た。座り込んだままのマリンを見下ろして——膝をつかずに、そのままマリンの腕を引いて立たせた。マリンが立ち上がった瞬間、レオンが抱きしめた。
周囲が静まり返った。
帝国の騎士たちも、竜族の兵士たちも、誰も声を出さなかった。
しばらくそのままでいて、それからレオンはマリンの顔を両手で挟んで、額に口をつけた。それから、唇に。
「……マリン、よく、戻ってきてくれた!」
マリンは何も言わなかった。でも、レオンの胸に顔を埋めたまま、動かなかった。
「おい」とライオスが言った。「人前で——」
「黙って」とシズクがライオスの背中を叩いて黙らせる。
ノアが小さく笑った。シリウスが空を見上げた。
ユリウスが書類に目を落とした。クロノスは最初からそちらを見ていなかった。
夜明けの光が、2人を照らしていた。
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