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第二十話:三つの声

 空を飛ぶのは、久しぶりだった。


 マリンは半竜人の翼を広げて、帝都の上空を南に向かった。隣にシズクがいた。帝都の夜明けが下に広がっていた。石造りの建物が朝の光を受け始め、路地の細さ、広場の広さ、人々が行き交う大通りが、上から見ると違って見えた。この街で半年間、マリンは生きてきた。


「さっき、帝国の人たちが『ありがとう』って言ってたわ」


「聞こえてた」

「竜が怖くないのかな、って思ってた」とマリンは続けた。


「帝国に来た時、門でトカゲって言われた。ずっとそれが頭にあった。でも——子供が泣き止んで、老人が立ち上がって、みんなが見上げてた。怖いじゃなくて、ありがとうって。そういう顔をしてた」


 シズクはしばらく黙ってから、前を向いたまま言った。


「アクア母様が言ってた。竜と人間が本当に分かり合うには、どちらかが先に手を伸ばさないといけない、って。レオン様が先に伸ばした。マリンが帝国に来た時から、ずっと」


「そうかもしれない」と少し間を置いてから、マリンは言った。


「それで人類と竜の距離が、少し縮まった」

「今夜の『ありがとう』は、半年かけて積み上げてきたものが出てきただけよ」


 マリンは帝都の夜明けを見下ろした。

 まだ暗い部分と、光が当たり始めた部分が混在していた。その境目が、ゆっくりと動いていた。


「未来が見えた気がした。竜と人間が、本当に一緒に生きていける未来。まだ遠いけど——今夜、確かに見えた」

「私も」とシズクは短く言った。「北部の大通りで、見えた」


 2人はしばらく黙って飛んだ。下に帝都の屋根が続いていた。煙が上がっている場所がいくつかある。まだ戦いが続いている場所だ。


「ねえシズク。レオン、いい男でしょ?」


 少し間があった。


「唐突ね、まぁ……確かに」

「でしょ、でしょ! ライオスよりよっぽどいい男よ!」


 沈黙が来た。長い沈黙だった。シズクが何かを言おうとして、やめた気配があった。


「……余計なこと言わせようとしないで」


 マリンが笑った。声に出して、久しぶりに笑った。捕まっていた2日間、ずっと笑えなかった。帝都に来てからも、こんなふうに笑えたのは久しぶりだった。


「シズクもそう思ってるってことじゃない?」

「思ってない!」

「思ってるじゃない?」

「思ってない、と言った!!」


 声に抑揚がなかった。それがかえって図星だという証拠だと、23年双子でいれば分かる。


「顔が正直だよー」

「余計なことを——」


「——言わせないで、でしょ」とマリンは笑いながら言った。「知ってる。でも今日だけは許して。2日間地下にいたんだから」


 シズクは何も言わなかった。でも、少しだけ口角が上がっていた。マリンには見えた。


「さておしゃべりはここまで、南の市場区が見えてきたわ」とシズクは言った。


 あえて話を変えた

 でも二人の笑いは収まらなかった。



 ◇◆◇◆◇



 ——帝都南部、市場区——


 市場区は昼間なら賑わう場所だった。けれど今夜は、屋台が倒れ、荷物が散乱し、路地に魔獣の爪痕が残っていた。竜の精鋭と帝国の騎士が並んで戦っていたが、路地が狭くて翼が使えない。魔獣の群れが路地を縫うように動いて、各方面から圧力をかけていた。建物の陰から市民の怯えた目がのぞいていた。逃げ切れていない者が、まだいた。


 リベルが上空から見下ろした。4つの路地に分かれて入り込んだ中型魔獣の群れが、竜の精鋭を分散させていた。1か所ずつ叩いていたら終わらない。


「アルテミス、ミスティ。全部同時に封じるよ」

「はい」

「準備できてる」


「ヴァルキリア母様たちとのユニゾンは経験してるけど」とミスティが続けた。「私たちだけでは初めて」

「私もセフィラ母様と一緒にやったことはある。でも自分たちだけでは、初めてね」

「ルーナ母様が言っていました」とアルテミスは言った。「いつか自分の和音を見つけなさい、って。今夜、やれる気がします」


「よし、じゃぁいっちょやりますかーー!」とリベルは翼を広げた。


「アルテミス、力は戻ってる?」

「少しだけ。でも、少しあれば十分です。私の役割は支えることだから」


 3人が顔を見合わせた。初めてのことを前にした顔だった。怖れではなく——期待だった。


「合図は私がする。ピッコロは高い音だから、みんなに聞こえるでしょ」


 3人が竜化した。


 最初にリベルが変わった。半竜人の翼が広がり、そのまま溶けるように変化した。鱗が現れたが、通常の鱗ではなかった。半透明の緑が揺れ、風でできているように見えた。翼を広げるたびに周囲の空気が動いた。地面から20メートル以上の高さまで伸びた体が、しかし不思議と軽やかだった。


「お、おお……」と路地で戦っていた帝国の若い騎士が思わず声を上げた。


 続いてアルテミスが変わった。光が先に来た。体の輪郭が光り始めて、それから金白色の鱗が現れた。翼を広げると光の粒が舞い、夜明けの光の中でアルテミスの竜の体は自ら光を放っていた。20メートルを超える金の竜が、静かに、でも確実に大気に顕現した。


「きれい……」と物陰に隠れていた女性が、思わず呟いた。


 最後にミスティが変わった。光と逆だった。周囲の光が少し吸い込まれるように漆黒の鱗が現れ、翼を広げると周囲だけ影が濃くなった。体の輪郭がわずかに揺らいでいたが、その揺らぎの中に深い力があった。


 3体の竜が、市場区の上空に並んだ。


 路地で戦っていた竜族の兵士たちが一斉に見上げた。女性の多い竜の精鋭部隊の顔に、高揚の色が広がった。怖れではなく、誇りだった。帝国の騎士たちも見上げていた。男性の多い帝国軍の目に宿っているのは圧倒された表情ではあったが——美しいものを見た時の顔だった。


 路地の魔獣たちが本能的に怯んで動きを止めた。


 はるか後ろで、ミレーユが静かに見ていた。メイド服のまま腕を組んで、3体の竜を見上げていた。その顔に、いつもの実務的な表情はなかった。ただ、温かかった。


 リベルのB♭(シ♭)が鳴った。ピッコロの突き抜けるような最高音——風が市場区全体に吹き込み、4つの路地に同時に渦を巻いた。狭い路地で風の壁が生まれ、魔獣たちの動きが封じられた。


 アルテミスのGが重なった。ホルンの温かく遠くまで届く完全五度——清浄な光が市場区を満たした。暗闇の中で怯えていた市民たちの顔が光の中に浮かび上がり、物陰から顔を出した子供が光の竜を見上げて目を細めた。


 ミスティのDが加わった。ハープの神秘的な第九音——闇が外側を包み、路地の出口を全て封じた。B♭とGとD、3音が重なった。


「「「風光闇三極封印(トリニティ・シール)」」」


 4つの路地で、魔獣たちが同時に動きを止めた。倒したのではなく、封じた。風が閉じ込め、光が鎮め、闇が縛った。


 路地が、静かになった。


 3体の竜が半竜人の姿に戻った。アルテミスが膝をつきそうになるのを、リベルがすぐに支えた。完全竜化の消耗が出ていた。


 路地では、竜族の女性兵士と帝国の若い男性騎士が顔を見合わせていた。


「……すごいな」


「私も初めて見ました。あんな近くで」と竜族の兵士が言った。少し頬を染めていた。


「怖くなかったですか?」

「怖くない。誇らしい。あの3人は、私たちの象徴だから」


 帝国の騎士は少し間を置いてから、静かに言った。「……俺たちも、仲間ですよね」

 竜族の兵士は驚いた顔をした。それから、笑った。「そうですね」


 建物の陰から子供が顔を出して、光の竜がいた場所を見ながら母親に言った。「きれいだった」。母親は何も言わなかった。でも、子供の手をしっかり握った。



 ミレーユが3人のところに歩いてきた。


「リベル様、アルテミス様、お疲れさまでした。水を飲んでください」

「私は大丈夫よ」

「飲んでください」と繰り返す。有無を言わせない声だった。


 リベルは少し間を置いてから、おとなしく受け取った。ミレーユには逆らえなかった。なぜかは分からない。でも、昔からそうだった。


「……ミレーユ、褒めてよ。3人でやったんだよ。初めてなのに」

「アルテミス様も飲んでください」

「ミレーユぅ」

「飲み終わったら、お話を聞きます」


 リベルは黙って水を飲んだ。アルテミスも飲んだ。ミスティが横でその様子を見ながら、少し口元を緩めていた。


 2人が飲み終えるのを待って、ミレーユは静かに言った。「よく、やりました」

 リベルが顔を上げた。「……それだけ?」


「それ以上何が必要ですか。私が言う『よくやりました』は、本当にそう思っている時しか言いません」


 リベルはしばらくミレーユを見た。それから、少し照れたように前を向いた。「……もっと言ってよぉ」


「西門外から戻ったら、です。今はまだ戦闘中ですわ」






 マリンとシズクが市場区に着いた時、戦闘は終わっていた。竜族の兵士と帝国の騎士が並んで封じられた魔獣の処理をしていた。笑い声が聞こえた。種族が違う者たちが、同じ疲れた顔をして、同じ方向を向いていた。


 マリンはその光景を見た。「シズク。ここにも、未来があった」


 シズクは答えなかった。

 でも、マリンの隣に立った。


 リベルが降りてきた。アルテミスとミスティも続いた。


「マリン姉様!」

「リベル」

「無事でよかった」


 それだけだった。でも、目が赤かった。マリンはリベルの頭をなでた。19歳の妹の頭を、子供にするみたいに。


「ありがとう。来てくれて」

「当然でしょ」


 そう言いながらも、なでられたまま動かなかった。


 アルテミスが静かに近づいてきた。マリンは腕を広げた。アルテミスが、そこに入った。17歳の末妹が、黙ってマリンにもたれかかった。




「ウィンドラから通信です」とシズクが言った。「西門外に大型魔獣の群れが残っています。10体。帝都に向かっています」


 全員が顔を上げた。ふたたび緊張が走った。


「まだ行ける?」とシズクはリベル、アルテミス、ミスティに聞いた。


 アルテミスがマリンから離れた。


「行けます」

「当然」とリベル。「ミレーユに戻ったら褒めてもらう約束したから」


 ミスティは眼鏡を戻した。


「これが最後。占いで見えてる」

「よし、5人でやろう」とシズクは空を見上げた。


「23年双子でいたから、私とマリンの波長は合う。今夜それは証明した。あとはやってみるまで分からない。でも、やれる気がする」


 5人が顔を見合わせた。


「やったことない」

「今夜初めてのことしかやってない」

「そうね」


 ——3人の言葉が重なるように続いた。


「マリン様」

「なに、ミレーユ」

「必ず戻ってきてください」


 マリンはミレーユを見た。この2日間、地下牢で一緒にいた。怖かった。でも、この人がいたから大丈夫だった。


「戻るわ、絶対」


 5人が空に上がった。西の地平線に向かって、夜明けの空を飛んだ。


 ミレーユは5人が消えていく方向を、しばらく見ていた。それから、静かに言った。


「行ってらっしゃいませ」


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