表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/26

第十九話:嵐の中で

 ——アルテミスの神殿跡、指揮所——


 夜明けの空が、赤く染まり始めた頃だった。


「シズク王妃」とウィンドラが飛んできた。「マリン様がクロノス様と合流しました。フェンリアとソルニアが外の制圧を完了しています。アルテミス様も一緒に出てきました」


 シズクは少し目を閉じた。それからすぐに開けた。


「ライオスとノアの状況は?」

「西門前で反乱軍の先頭を押さえています。膠着中ですが——」


 その時、地面が揺れた。


 遠くから、咆哮が聞こえた。


 1つではない。複数だ。方向も違う。北、西、南——同時だ。


「この反応は魔獣です!!」とウィンドラが言った。先ほどまで声が変わった。「複数か所から同時に解放されています。帝都北部、西門外、南の市場区——」


 シズクは地図を見た。


 なりふり構わず、だ。教団と反乱貴族と通商連合が、最後の手を使った。追い詰められた者たちの、最後の悪あがきだった。でも——最後の悪あがきが一番危ない。


「規模は?」

「確認できているだけで大型が7体、中型が20体以上。まだまだ増えています!!」

「テラナとアクアリーヌはどうしてる?」

「ヴェルダン屋敷と物資拠点の制圧中です!」


「わかった、二人は《《呼び戻さない》》」とシズクは言った。「そちらを中途半端にしたら首謀者を逃がすわ。各部隊に伝えて。竜の精鋭は南の市場区に集中。帝国軍は北部と西門を守る。ライオスとノアは反乱軍を引き続き抑えて!」


「御意!!」


「それと——」とミスティが横から言った。眼鏡の奥の瞳が、どこか遠くを見ていた。「マリンが来ますわ。すぐに」


「マリンは今——」

「来ます!」


 ミスティの占いが外れたことは、ない。



 ◇◆◇◆◇



 ——帝都北部、市街地——


 帝国軍の前線が、崩れかけていた。


 大型の魔獣が3体、石畳の大通りを歩いていた。帝国の重装騎士が突撃したが、体当たりで弾き飛ばされた。槍が皮膚に刺さらない。炎を噴いても、距離が遠すぎる。


 竜の精鋭が加勢しようとしたが、市街地の路地では翼が使えない。20年の平和が続いた。魔獣との実戦経験がある竜族は少ない。かつての練度とは違った。


 街の端で、民衆が逃げ惑っていた。母親が子供を抱えて走っている。老人が転んだ。誰も助けに行けなかった。


 レオンが剣を抜いたまま、部下を庇うように前に出た。肩の傷がまだ痛んでいる。それでも足が止まらなかった。


「絶対に退くな!!」とレオンは言った。「ここを抜かれたら——」


 大型の魔獣が、咆哮した。音圧だけで兵士たちが数歩後退した。


 その瞬間——上空から何かが降りてきた。


 シズクだった。

 半竜人の姿で、レオンの隣に着地した。

 その後ろに、マリンが続いた。


 レオンがマリンを見た。

 マリンはレオンを見た。


 シズクはその2秒間を、少し離れた場所から見ていた。


 レオンの顔が変わった。戦場の指揮官でも騎士でもない。剥き出しの、個人的な何かが出た。傷を負ったまま帝国を守るために立っていた男が、一瞬だけ、ただのレオンになった。


 マリンの顔も変わった。帝国の皇妃でも竜の姫でもない。ただのマリンになった。


 でも——2人とも、何も言わなかった。


 今は戦場だ。分かっている。


「後で」とマリンが先に言った。

「ああ」とレオンが言った。「後で」


 それだけだった。


 シズクはその2人を見ながら、思った。この2人は大丈夫だ。何があっても、絶対に。


「行くよ、マリン」とシズクは言った。


「……うん」

「ユニゾンブレス。やるよ」


 マリンが少し止まった。固まった。


 シズクは気づいていた。でも、黙って前を向いた。


 大型魔獣が、また咆哮した。帝国の兵士たちが後退した。老人がまだ転んだままだった。子供の泣き声が聞こえた。


「マリン」とシズクはもう一度言った。振り返らずに。


「……分かってる」とマリンは言った。「でも——」


「でも?」

「レオンの前で。帝国の人たちの前で、私が竜になったら——今まで積み上げてきたものが——」

「壊れない!」


 シズクは言い切った。


「壊れるものは、最初からそんなに丈夫じゃなかったのよ」


 マリンは黙った。


「私が先に行くから付いてきなさい」


 翼が消えた。代わりに、青白い鱗が全身を覆った。頭から尾まで、20メートルを超える水の竜が石畳に顕現した。


 周囲が静まり返った。


 帝国の兵士たちが後退した。魔獣でさえ怯んだ。シズクの巨体が通りを塞ぐように立った。翼を広げると、両側の建物に届きそうだった。



 その瞬間——レオンが動いた。


 後退する兵士たちを押しとどめて、前に出た。シズクの巨体を見上げて、振り返って——マリンを見た。


 言葉はなかった。

 ただ、その目が言っていた。


 行け、と。俺はここにいる、と。


 マリンの手の震えが、止まった。

 マリンの瞳に力が宿る。


 翼が消えた。防御に特化した分厚い鱗が、光を弾いた。シズクより一回り小さいが、それでも20メートルを超える水の竜が石畳に顕現した。


 2体の竜が、北部の大通りに並んだ。


 帝国の民衆が、息をのんだ。逃げていた足が、止まった。


 老人が転んだまま、見上げていた。

 母親が子供を抱えたまま、立ち尽くしていた。


 これが竜だ。

 伝説の中にしかいなかった本物の竜が、今夜帝都の大通りに立っている。


 畏怖の対象だった。

「トカゲ」と呼ばれた存在だった。


 でも今夜、2体の竜は民衆に背を向けて、前に立っていた。


 オーボエとファゴット——ダブルリードの姉妹楽器が、共鳴した。

 シズクのCが鳴った。鋭く澄んだ主音が大気を貫いた。

 マリンのEが重なった。深く柔らかい長三度が主音を包んだ。


 2音が融合した瞬間、空気そのものが震えた。水と氷が螺旋を描いて絡み合い、2頭の龍が互いを軸に回転しながら大型魔獣3体へと向かって収束した。


双水螺旋閃デュアル・アクア・スパイラル


 轟音はなかった。水が通り過ぎた後に、沈黙があった。


 3体が、静かに倒れた。





 民衆の中から、誰かが声を上げた。


 拍手ではなかった。歓声でもなかった。


 ただ——「ありがとう」という声が、1つ聞こえた。


 それから、もう1つ。


 また1つ。




 2体の竜は、ゆっくりと半竜人の姿に戻った。


 マリンは振り返った。帝都の大通りを見渡した。逃げていた民衆が、立ち止まって見ていた。恐怖の目ではなかった。


「ありがとう」という声が、重なっていった。


 レオンが、マリンの隣に歩いてきた。傷を負ったまま、前に立ったまま、怯まなかったその男が、今はただ静かにマリンの隣に立った。


 何も言わなかった。でも、その隣にいることが、全部だった。


 シズクは少し離れた場所から、2人を見ていた。


 これがレオンという男だ。マリンが「帝国を頼みます」と言って残った理由が、今夜初めて完全に分かった気がした。


「シズク王妃」とウィンドラが飛んできた。「南の市場区に中型魔獣の群れが入り込んでいます。リベルたちが向かっていますが——」


「分かった」とシズクは言った。「北部はレオン様に任せます。私は移動する」


「マリン様は?」


 シズクはマリンを見た。マリンはシズクを見た。


「私も行くわ」とマリンは言った。


「レオンは帝国軍と北部を守って」とマリンはレオンに言った。


「分かった」とレオンは言った。


「気をつけて、絶対に帰ってくるんだよ」

「うん。約束するわ」


 マリンが飛び上がった。シズクが続いた。


 2人が空に消えていく。

 レオンはその背中を見送った。


 その後ろで、帝国の兵士たちが顔を見合わせていた。転んでいた老人が、誰かに助け起こされていた。子供が泣き止んでいた。


「ありがとう」という声は、まだ大通りに残っていた。


ぜひご感想をお寄せください。

また評価とブックマークもしていただけると嬉しいです!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ