第十九話:嵐の中で
——アルテミスの神殿跡、指揮所——
夜明けの空が、赤く染まり始めた頃だった。
「シズク王妃」とウィンドラが飛んできた。「マリン様がクロノス様と合流しました。フェンリアとソルニアが外の制圧を完了しています。アルテミス様も一緒に出てきました」
シズクは少し目を閉じた。それからすぐに開けた。
「ライオスとノアの状況は?」
「西門前で反乱軍の先頭を押さえています。膠着中ですが——」
その時、地面が揺れた。
遠くから、咆哮が聞こえた。
1つではない。複数だ。方向も違う。北、西、南——同時だ。
「この反応は魔獣です!!」とウィンドラが言った。先ほどまで声が変わった。「複数か所から同時に解放されています。帝都北部、西門外、南の市場区——」
シズクは地図を見た。
なりふり構わず、だ。教団と反乱貴族と通商連合が、最後の手を使った。追い詰められた者たちの、最後の悪あがきだった。でも——最後の悪あがきが一番危ない。
「規模は?」
「確認できているだけで大型が7体、中型が20体以上。まだまだ増えています!!」
「テラナとアクアリーヌはどうしてる?」
「ヴェルダン屋敷と物資拠点の制圧中です!」
「わかった、二人は《《呼び戻さない》》」とシズクは言った。「そちらを中途半端にしたら首謀者を逃がすわ。各部隊に伝えて。竜の精鋭は南の市場区に集中。帝国軍は北部と西門を守る。ライオスとノアは反乱軍を引き続き抑えて!」
「御意!!」
「それと——」とミスティが横から言った。眼鏡の奥の瞳が、どこか遠くを見ていた。「マリンが来ますわ。すぐに」
「マリンは今——」
「来ます!」
ミスティの占いが外れたことは、ない。
◇◆◇◆◇
——帝都北部、市街地——
帝国軍の前線が、崩れかけていた。
大型の魔獣が3体、石畳の大通りを歩いていた。帝国の重装騎士が突撃したが、体当たりで弾き飛ばされた。槍が皮膚に刺さらない。炎を噴いても、距離が遠すぎる。
竜の精鋭が加勢しようとしたが、市街地の路地では翼が使えない。20年の平和が続いた。魔獣との実戦経験がある竜族は少ない。かつての練度とは違った。
街の端で、民衆が逃げ惑っていた。母親が子供を抱えて走っている。老人が転んだ。誰も助けに行けなかった。
レオンが剣を抜いたまま、部下を庇うように前に出た。肩の傷がまだ痛んでいる。それでも足が止まらなかった。
「絶対に退くな!!」とレオンは言った。「ここを抜かれたら——」
大型の魔獣が、咆哮した。音圧だけで兵士たちが数歩後退した。
その瞬間——上空から何かが降りてきた。
シズクだった。
半竜人の姿で、レオンの隣に着地した。
その後ろに、マリンが続いた。
レオンがマリンを見た。
マリンはレオンを見た。
シズクはその2秒間を、少し離れた場所から見ていた。
レオンの顔が変わった。戦場の指揮官でも騎士でもない。剥き出しの、個人的な何かが出た。傷を負ったまま帝国を守るために立っていた男が、一瞬だけ、ただのレオンになった。
マリンの顔も変わった。帝国の皇妃でも竜の姫でもない。ただのマリンになった。
でも——2人とも、何も言わなかった。
今は戦場だ。分かっている。
「後で」とマリンが先に言った。
「ああ」とレオンが言った。「後で」
それだけだった。
シズクはその2人を見ながら、思った。この2人は大丈夫だ。何があっても、絶対に。
「行くよ、マリン」とシズクは言った。
「……うん」
「ユニゾンブレス。やるよ」
マリンが少し止まった。固まった。
シズクは気づいていた。でも、黙って前を向いた。
大型魔獣が、また咆哮した。帝国の兵士たちが後退した。老人がまだ転んだままだった。子供の泣き声が聞こえた。
「マリン」とシズクはもう一度言った。振り返らずに。
「……分かってる」とマリンは言った。「でも——」
「でも?」
「レオンの前で。帝国の人たちの前で、私が竜になったら——今まで積み上げてきたものが——」
「壊れない!」
シズクは言い切った。
「壊れるものは、最初からそんなに丈夫じゃなかったのよ」
マリンは黙った。
「私が先に行くから付いてきなさい」
翼が消えた。代わりに、青白い鱗が全身を覆った。頭から尾まで、20メートルを超える水の竜が石畳に顕現した。
周囲が静まり返った。
帝国の兵士たちが後退した。魔獣でさえ怯んだ。シズクの巨体が通りを塞ぐように立った。翼を広げると、両側の建物に届きそうだった。
その瞬間——レオンが動いた。
後退する兵士たちを押しとどめて、前に出た。シズクの巨体を見上げて、振り返って——マリンを見た。
言葉はなかった。
ただ、その目が言っていた。
行け、と。俺はここにいる、と。
マリンの手の震えが、止まった。
マリンの瞳に力が宿る。
翼が消えた。防御に特化した分厚い鱗が、光を弾いた。シズクより一回り小さいが、それでも20メートルを超える水の竜が石畳に顕現した。
2体の竜が、北部の大通りに並んだ。
帝国の民衆が、息をのんだ。逃げていた足が、止まった。
老人が転んだまま、見上げていた。
母親が子供を抱えたまま、立ち尽くしていた。
これが竜だ。
伝説の中にしかいなかった本物の竜が、今夜帝都の大通りに立っている。
畏怖の対象だった。
「トカゲ」と呼ばれた存在だった。
でも今夜、2体の竜は民衆に背を向けて、前に立っていた。
オーボエとファゴット——ダブルリードの姉妹楽器が、共鳴した。
シズクのCが鳴った。鋭く澄んだ主音が大気を貫いた。
マリンのEが重なった。深く柔らかい長三度が主音を包んだ。
2音が融合した瞬間、空気そのものが震えた。水と氷が螺旋を描いて絡み合い、2頭の龍が互いを軸に回転しながら大型魔獣3体へと向かって収束した。
「双水螺旋閃」
轟音はなかった。水が通り過ぎた後に、沈黙があった。
3体が、静かに倒れた。
民衆の中から、誰かが声を上げた。
拍手ではなかった。歓声でもなかった。
ただ——「ありがとう」という声が、1つ聞こえた。
それから、もう1つ。
また1つ。
2体の竜は、ゆっくりと半竜人の姿に戻った。
マリンは振り返った。帝都の大通りを見渡した。逃げていた民衆が、立ち止まって見ていた。恐怖の目ではなかった。
「ありがとう」という声が、重なっていった。
レオンが、マリンの隣に歩いてきた。傷を負ったまま、前に立ったまま、怯まなかったその男が、今はただ静かにマリンの隣に立った。
何も言わなかった。でも、その隣にいることが、全部だった。
シズクは少し離れた場所から、2人を見ていた。
これがレオンという男だ。マリンが「帝国を頼みます」と言って残った理由が、今夜初めて完全に分かった気がした。
「シズク王妃」とウィンドラが飛んできた。「南の市場区に中型魔獣の群れが入り込んでいます。リベルたちが向かっていますが——」
「分かった」とシズクは言った。「北部はレオン様に任せます。私は移動する」
「マリン様は?」
シズクはマリンを見た。マリンはシズクを見た。
「私も行くわ」とマリンは言った。
「レオンは帝国軍と北部を守って」とマリンはレオンに言った。
「分かった」とレオンは言った。
「気をつけて、絶対に帰ってくるんだよ」
「うん。約束するわ」
マリンが飛び上がった。シズクが続いた。
2人が空に消えていく。
レオンはその背中を見送った。
その後ろで、帝国の兵士たちが顔を見合わせていた。転んでいた老人が、誰かに助け起こされていた。子供が泣き止んでいた。
「ありがとう」という声は、まだ大通りに残っていた。
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