アイナの警告
カフェの個室には、二人分の紅茶の香りだけが残っていた。
カップの縁から立ちのぼる湯気が、やけにゆっくりと揺れている。
アイナは、両手を膝の上で組み、視線を落としたまま深呼吸をした。
一度、二度。
それでも足りないようで、さらに小さく息を吸い込む。
「……続けますね」
その声は、震えていた。
「レオンは……その“物語”の中では、かなり特殊な存在でした」
カレンは、黙って頷いた。
否定も、驚きも、もう追いつかない。
「グイグイ引っ張るタイプで、強引で、俺様で……」
「でも、だからこそ人気が高かったんです」
アイナは、唇を噛んでから言葉を選ぶように続けた。
「……大人向けの展開が多くて。
正直、刺激が強いと感じる人も多かったです」
カレンの指先が、カップの持ち手を強く握る。
「ランダムに現れるから……
“会いたくて”何度も挑戦する人もいました」
「……私は」
カレンの声は、思ったよりも低かった。
「踏みたくもないのに……踏み抜いた、ってこと?」
アイナは、すぐに答えなかった。
代わりに、視線を逸らし、小さく首を振る。
「……なんと言えばいいのか……」
「カレンさんは、避けようとしていました」
「それでも、条件が揃ってしまった……」
沈黙が落ちる。
カレンは、胸の奥がひやりと冷えるのを感じていた。
「……じゃあ」
「どうしたら、レオンから解放されるの?」
その問いに、アイナの肩がわずかに跳ねた。
「……です」
聞き取れないほど小さな声。
「え?」
アイナは、ぎゅっと拳を握りしめ、もう一度深く息を吸った。
「……解放は、されないです」
カレンの思考が、一瞬止まる。
「……されない?」
「はい」
アイナの声は、はっきりしていた。
それが、余計に重く胸に落ちる。
「途中で関係を断とうとすると……
“別の形”に進む分岐がありました」
「……別の形?」
「……NTR、と呼ばれていました」
「待って!」
カレンは、思わず身を乗り出した。
「待って待って!
それ、現実でされると非常に困る!」
「今も、十分困ってるの!」
アイナは、慌てて頷いた。
「分かっています!」
「だから……だからこそ、急いでほしいんです!」
一瞬、アイナの瞳が揺れた。
「ベルンハルト君に、相談してください」
「彼は……本当に優秀です」
「“対抗できる側”の人です」
カレンは、唇を噛みしめた。
ベルンハルトの顔が、脳裏に浮かぶ。
静かで、優しくて、時々不器用で。
「……そうね」
やっと、それだけを絞り出した。
「手遅れに……」
アイナは、はっきりと言った。
「手遅れになる前に。急いでください」
その言葉が、胸に突き刺さる。
カフェを出るとき、アイナは一度立ち止まり、深く頭を下げた。
「ガボゼで……」
「エルンストに追いかけるように言ってくれたって、聞きました」
カレンは、少しだけ微笑んだ。
「幸せになってね」
「はい……!」
アイナは、泣きそうな顔で笑い、走り去っていった。
残されたカレンは、その背中を見送ってから、ゆっくりと息を吐いた。
(……急がなきゃ)
ベルンハルトに、会わなければ。
今度こそ、黙ってはいけない。
胸の奥で、不安と焦りが絡み合いながら、確かに一つの決意が芽生えていた。
――ここで、立ち止まるわけにはいかない。




