今すぐ逢いたい
廊下を走るのは久しぶりだった。
制服の裾が揺れて、息が少し乱れる。
(ベルンハルト……)
胸の奥が、焦るように熱を持つ。
考えるより先に、身体が動いていた。
レオンはいない。
今日は、教室が違う。
(大丈夫)
そう言い聞かせながら、角を曲がる。
見慣れた扉。
見慣れた教室。
(……いた)
胸の奥が、きゅっと締まる。
ベルンハルトは、いつもの席に座っていた。
姿勢は正しく、机に置いた本に視線を落としている。
その横顔を見ただけで、喉が詰まった。
(……ベルンハルト)
一歩、足を踏み出す。
その瞬間。
彼が、顔を上げた。
視線が、合う。
――笑っていなかった。
いつもなら、ほんの少し口元が緩む。
気づいたときには、目が細められている。
けれど今は違う。
静かで、冷えているわけでもない。
ただ、何かを抑え込んだような、固い表情。
カレンは、その場に立ち尽くした。
(……どうして)
胸の奥が、ざわつく。
ベルンハルトは、視線を逸らさなかった。
立ち上がりもしない。
ただ、カレンを見ている。
教室のざわめきが、遠くに感じられた。
「……ベルンハルト」
名前を呼ぶと、喉が震えた。
彼は、ほんの一瞬だけ目を伏せ、
それから、低く答えた。
「……来たか」
それだけ。
責める声音ではない。
けれど、優しさも、まだ戻っていない。
カレンは、思わず机の端を握った。
(違う、伝えなきゃ)
一歩、近づく。
「話が……あるの」
そう言うと、周囲の視線に気づいたのか、
ベルンハルトは小さく息を吐いた。
「……放課後でいい」
拒絶ではない。
けれど、距離を保つ声。
カレンの胸が、ちくりと痛む。
「今じゃ……だめ?」
問いかける声は、ほとんど囁きだった。
ベルンハルトは、しばらく黙っていた。
その沈黙が、重い。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。
「……短くだ」
それだけ言って、教室の外へ視線を向ける。
カレンは、頷いた。
廊下に出ると、空気が少し冷たく感じられた。
窓から差し込む光が、床に長い影を落としている。
ベルンハルトは、数歩先で立ち止まった。
振り返らず、背中を向けたまま。
「……あの日のことか」
その一言で、胸が締め付けられる。
「うん」
即答した。
「全部……話したい。隠したくない」
ベルンハルトの肩が、わずかに動いた。
「……俺は」
彼の声は、低く、静かだった。
「見た」
それだけで、何を指しているのか分かった。
唇が、乾く。
「……あれは」
言葉を探す。
でも、どれも足りない気がした。
「私、望んでない。
怖かった。
逃げたかった」
声が、震える。
ベルンハルトは、ゆっくりと振り向いた。
その瞳は、まっすぐだった。
怒りではない。
失望とも、少し違う。
――痛みだ。
カレンは、はっと息を飲んだ。
(あ……)
「……俺は」
彼は、一歩だけ近づいた。
距離は、まだある。
けれど、存在が近い。
「守るつもりだった」
その言葉に、胸が痛くなる。
「……なのに」
続きは、言わなかった。
カレンは、堪えきれずに首を振った。
「違うの。
ベルンハルトのせいじゃない」
一歩、踏み出す。
「私が、ちゃんと言わなかった。
助けてって……すぐに」
ベルンハルトの目が、揺れた。
「……今は?」
問いかけは、短い。
カレンは、迷わなかった。
「今は……ベルンハルトに、逢いたかった」
胸に手を当てる。
「ベルンハルトに、聞いてほしかった」
一瞬、時間が止まったように感じた。
廊下を通る生徒の足音。
遠くで鳴る鐘の音。
ベルンハルトは、深く息を吸い、吐いた。
「……放課後」
今度は、はっきりと。
「ちゃんと、全部聞く」
視線が、カレンを捉える。
「逃げるな」
その声は、静かで、重かった。
カレンは、強く頷いた。
「逃げない」
そう答えた瞬間、
ベルンハルトの指が、ほんの一瞬、動いた。
触れない距離。
けれど、確かに伸びかけた手。
それを、彼は自分で止めた。
「……授業に戻れ」
そう言って、踵を返す。
カレンは、その背中を見つめながら、
胸の奥で、小さく息を整えた。
(間に合う)
まだ、間に合う。
そう信じて、教室へ戻る。
ベルンハルトの表情に、
もう笑みはなかったけれど。
――完全に、閉ざされてもいなかった。




