逃げ場のない朝
朝の空気は澄んでいるのに、胸の奥だけが重かった。
玄関前に止まった馬車を見た瞬間、カレンは足を止める。
その紋章。
昨日、何度も視界に焼きついたもの。
「……」
声を出す前に、聞き慣れた声が降ってきた。
「おはよう。カレン」
振り向くと、レオンが立っていた。
いつも通りの、整った笑顔。
いつも通りの、距離の近さ。
「……おはようございます」
それだけ言うのが、精一杯だった。
次の瞬間。
レオンの手が、カレンの手首を掴んだ。
強くはない。
けれど、逃げる隙を与えない力。
「時間がない。行こう」
「……っ」
拒めばいい。
声を上げればいい。
頭では分かっているのに、
馬車に刻まれた紋章が、現実として圧をかけてくる。
貴族社会。
隣国公爵家。
この場で騒げば、何が起こるのか――想像が、先に立つ。
気づけば、足が動いていた。
馬車の中は静かだった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
レオンは当然のように隣に腰を下ろし、
カレンの腰に腕を回した。
「……離れてください」
声は震えていた。
それでも、言えた。
レオンは一瞬、きょとんとした顔をしてから、
指先でカレンの顎をすくい上げた。
「そんな顔をするな」
視線が合う。
近い。近すぎる。
そして――
唇が、重なった。
「……っ!」
反射的に、両手で押し返す。
全力で。
「いい加減にして!」
声が裏返る。
レオンは一歩引いた。
驚いたように目を瞬かせ、それから――明るく笑った。
「ああ! そうだね!」
まるで、軽い冗談でも聞いたかのように。
「じゃあさ」
何事もなかったように、言う。
「俺たち、付き合おう」
「……え?」
意味が、理解できなかった。
言葉が、頭の中でばらばらに弾ける。
レオンは気にした様子もなく、
カレンの髪に指を通し、整える。
「決まりだな」
馬車が止まった。
学園の門が見える。
扉が開き、レオンが先に降りる。
振り返って、手を差し出した。
「カレン。手を」
震える指先。
拒む理由は、いくつもあるはずなのに。
カレンは、ゆっくりと手を伸ばしていた。
その瞬間、
胸の奥で何かが、静かに音を立てて崩れていくのを感じながら。




