消えない感触
水音が、止まらない。
カレンは洗面台に両手をつき、何度も何度も唇を擦っていた。
冷たい水が指先を伝い、白い陶器に弾く。
(……取れない)
洗っているのは、表面だけだ。
それくらい、自分でもわかっている。
それでも、やめられなかった。
唇に残る、違和感。
触れられた記憶が、皮膚の内側に染み込んでいるような感覚。
「……っ」
喉が詰まり、息が乱れる。
鏡に映る自分の顔は、青ざめていて――どこか、他人のようだった。
コンコン。
扉を叩く音が、やけに大きく響いた。
「カレン?」
聞き慣れた声。
それだけで、肩が跳ねる。
「入っても?」
「……だ、ダメ!」
反射的に叫んでいた。
「私、いま……よごれてるから……」
声が震える。
自分でも、何を言っているのかわからない。
「大丈夫だ」
低く、静かな声。
「お願い……今日は……誰にも会いたくない……」
しばらく、沈黙。
その沈黙の向こうで、
ベルンハルトが、どんな顔をしているのか――
カレンには想像できなかった。
扉の前。
ベルンハルトは、動かなかった。
拳を握りしめ、
その場に縫い止められたように立っていた。
(……消したい)
彼女の唇に残った、他人の痕跡。
上書きすることは、簡単だ。
扉を開けて、抱き寄せて、
自分の温度で、声で、存在で。
そうすれば――
彼女は、また自分を見る。
(……だが)
扉の向こうから聞こえる、
水音と、かすかな嗚咽。
それは、求めている音ではない。
守るべき声だ。
ベルンハルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……今日は、無理をしなくていい」
扉に、そっと掌を当てる。
「俺は、ここにいる」
返事は、ない。
それでも、離れなかった。
(奪われた感触を、俺が消したいと思うほどに)
(――もう、手放す気がない)
それを、自覚した瞬間。
胸の奥で、何かが静かに折れた。
扉一枚を隔てて、
二人は同じ夜に、別々の痛みを抱えていた。




