侵食
屋敷へ戻る馬車の中、窓外の景色が流れていくのを眺めながら、俺は何度も同じ場面を思い返していた。
図書室。
人の多い場所。
静かな空気。
――それでも。
確かに、あの男は、俺の居た場所へ足を踏み入れていた。
レオン。
隣国の公爵家の後継者。
肩書きも、実力も、振る舞いも、周囲から見れば申し分ない。
だからこそ、厄介だ。
露骨ではない。
強引すぎるわけでもない。
誰の目にも「問題」と映らない距離で、少しずつ、確実に、彼女の隣へ立つ。
(……やり方が、巧妙だ)
カレンは気づいていない。
いや、気づかないようにしているのかもしれない。
彼女は基本的に人を疑わない。
優しさを向けられれば、そのまま受け取る。
それが、彼女の美点であり――
今は、弱点になっている。
レオンが彼女に触れた瞬間。
指先が、ほんの一瞬、重なっただけのこと。
だが。
あの僅かな動きに、彼の意思がはっきりとあった。
わざとだ。
確信をもって、距離を詰めている。
(……俺の前で)
怒りが、喉の奥に沈殿する。
だが、表に出すわけにはいかない。
ここで感情を露わにすれば、
彼の思う壺だ。
レオンは、楽しんでいる。
彼女を揺らすことを。
そして――俺を、試すことを。
馬車が止まり、扉が開く。
「お帰りなさいませ」
使用人の声に、短く頷き、屋敷へ足を踏み入れる。
廊下を歩きながら、自然と拳が握られていた。
俺は、彼女の隣に立ってきた。
時間を重ね、言葉を交わし、信頼を積み上げて。
彼女が笑う理由を、
彼女が安心して息をつける場所を、
俺は知っている。
(……知っている、はずだ)
だが。
「明日はカレンの家で過ごす」
あの言葉。
事前の了承もなく、
当然のように告げる態度。
拒絶されることを前提にしていない声。
――侵食。
その言葉が、胸に重く落ちる。
彼は、彼女の意思より先に、
“既に決まっていること”として話を進める。
それは、俺が最も嫌悪するやり方だ。
(……許容している、と思われている)
カレンが強く拒まないこと。
困惑しながらも、その場をやり過ごすこと。
それを、
“受け入れられている”と、誤認している。
違う。
彼女は、困っている。
逃げ道を探しながら、場を荒立てないようにしているだけだ。
俺は、思い出す。
夏の避暑地。
湖畔。
彼女が振り向いて笑った顔。
「本当に嬉しい」
その一言に、
胸の奥が、静かに満たされた感覚。
あれは、誰にも譲れない。
(……譲る気も、ない)
彼女は俺の恋人だ。
曖昧でも、仮でもない。
俺は、彼女と共に歩くことを選び、
彼女も、それを選んだ。
それなのに。
他人が、当然のようにその間へ入ってくる。
しかも、彼女の“優しさ”を利用して。
(……笑えない)
部屋へ入り、扉を閉める。
静寂。
外套を脱ぎ、椅子に掛けると、深く息を吐いた。
冷静でいなければならない。
理知的であれ。
――そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
だが。
最近、それが、やけに遠い。
カレンが困った顔をした時。
レオンの視線が、彼女だけを追っている時。
人前で、当然のように隣に並ばれた時。
胸の奥が、ざわつく。
(……俺の場所だ)
言葉にしなくても、
体が、そう理解している。
侵食は、静かだ。
気づいた時には、境界が曖昧になっている。
だからこそ。
――線を、引く必要がある。
彼女を守るために。
そして、俺自身のために。
「……カレン」
名を呼ぶだけで、
不思議と呼吸が整う。
彼女は、俺を信じている。
だからこそ、俺は迷ってはいけない。
レオンは、試している。
どこまで踏み込めるかを。
ならば。
答えを、示すだけだ。
俺の居た場所へ、
これ以上、足を踏み入れさせない。
静かに。
確実に。
彼女の隣は――
最初から、俺の席だ。
その事実を、
誰よりもはっきり、行動で示す。
感情が、底で形を成していく。
それは、焦りでも、怒りでもない。
――決意だ。
俺は、もう一度、深く息を吸った。
次は、
逃がさない。
彼女の手も、
彼女の時間も、
彼女の笑顔も。
俺の隣で、守り切る。
ベルンハルト視点




