いつもの距離が、戻らない
翌朝。
夏季休暇が終わり、学園が再び動き出した。
カレンは、ベルンハルトと並んで馬車に乗っていた。
いつもの席。
いつもの距離。
……の、はずだった。
彼の手が、今日は強い。
指を絡めるでもなく、包み込むようでもなく、
離さないという意思だけが、そこにある。
「……大丈夫か?」
低い声で、ベルンハルトが問いかける。
「うん……」
短く答えながら、カレンは視線を落とした。
昨日のことが、まだ胸の奥に残っている。
レオンの手。
視線。
あの、逃げ場のない感覚。
ベルンハルトは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、指先にわずかに力を込める。
(……離さない)
そう言われているようで、
カレンの胸が、少しだけ落ち着いた。
学園の門が見えてくる。
登校する生徒たちのざわめき。
日常が戻ってきたはずなのに、
空気はどこか張り詰めている。
馬車を降りると、
ベルンハルトは自然にカレンの隣に立った。
手は、まだ繋がれたまま。
「やぁ、カレン」
軽い声。
レオンだった。
いつもの余裕のある笑み。
人目のある場所だというのに、ためらいがない。
「今日も美しいね」
「……あ、おはようございます」
カレンは反射的にそう返した。
周囲の視線がある。
無視することも、突き放すこともできない。
その瞬間、
ベルンハルトの視線が、鋭くなる。
レオンはそれに気づいていながら、気にしない。
「ベルンハルトも、おはよう」
「ああ」
短い返事。
温度のない声。
レオンは、まるで当然のように一歩踏み出した。
「じゃあ、行こうか」
カレンの空いている側に、並ぶ。
「え……?」
思わず、カレンはレオンを見てしまった。
その一瞬。
レオンとカレンの間に、奇妙な静寂が生まれる。
「遅れるぞ?」
レオンは、カレンの瞳をまっすぐ見つめて笑った。
――その距離は、近すぎた。
次の瞬間。
ベルンハルトが、一拍遅れて動いた。
カレンの手を、強く引く。
「行くぞ」
低く、はっきりとした声。
人目がある。
だから、衝突は起きない。
三人は並びながら、教室へ向かって歩き出す。
だが、空気は明らかに変わっていた。
中庭を抜けたところで、
エルンストとアイナに出会う。
「やぁ。久しぶり!」
エルンストはいつも通り、朗らかだった。
「おはようございます」
アイナは一歩下がって、丁寧に頭を下げる。
「2人とも、おはよう」
カレンは微笑んで返した。
「ああ。おはよう」
ベルンハルトも、視線を向ける。
その時だった。
アイナの視線が、
カレンの横にいるレオンに向いた瞬間、
わずかに肩が強張る。
ほんの一瞬。
けれど、確かに。
レオンは、アイナには一切関心を示さない。
視線は、最初から最後まで、カレンだけを追っている。
挨拶はそれだけで終わり、
それぞれ別の方向へ歩き出した。
離れていく途中、
アイナは何度か振り返った。
何かを確かめるように。
あるいは――警戒するように。
カレンは、それに気づかなかった。
ただ、ベルンハルトの手が、
いつもよりも強く、離れなかったことだけを感じていた。
(……変だ)
ベルンハルトの胸の奥で、
静かに、確実に、何かが形を成し始めていた。
これは、苛立ちではない。
怒りでもない。
――奪われる、という想像。
それだけで、
彼の内側が、ひどくざわついた。
(……触れさせない)
まだ、言葉にはならない。
だが、その感情は、確かにそこにあった。
学園の鐘が鳴る。
日常が始まる音。




