その手を、離せ
昼下がりの空気は、妙に張りつめていた。
屋敷の門前に止まった馬車から、先に降りたのはレオンだった。
「危ないから、手を」
差し出された手。
カレンは一瞬ためらい、けれど無視する勇気も持てず、そっと指先を預けて馬車を降りた。
その瞬間だった。
「……カレン?」
聞き慣れた声。
低く、けれど確かに彼女を呼ぶ声。
振り向けば、門の前にベルンハルトが立っていた。
昼に迎えに来ると書いてあった、あの手紙どおりに。
「ベルン……」
名前を呼びかけた、その声はひどく小さくなった。
レオンは、カレンの手を離さなかった。
それどころか、指先に力を込め、まるで“ここにいる”と誇示するかのように握り締める。
「やぁ、ベルンハルト。奇遇だね」
軽い調子の声。
何気ない挨拶のようでいて、その実、挑発そのものだった。
「今、デートの帰りだったんだ」
カレンの胸が、ぎゅっと縮む。
「……あ。これは……」
説明しなければ、と口を開いた瞬間。
レオンの腕が動いた。
ぐい、と腰を引き寄せられる。
距離が、一気に詰まる。
「っ……!」
驚きで声が詰まるより先に、レオンは彼女の髪に顔を寄せた。
唇が触れる寸前の距離。
空気だけが、熱を帯びて撫でる。
ベルンハルトの目が、はっきりと揺れた。
それは怒りでも、驚愕でもない。
“理解”が追いついた瞬間の、静かな揺らぎだった。
「……離せ」
低い声。
感情を抑え込んだ、あまりに冷たい声音。
レオンは、楽しそうに口角を上げる。
「ずいぶん独占欲が強いな。友人同士だろ?」
「違う」
即答だった。
ベルンハルトは、一歩前に出る。
「その手を離せ。今すぐだ」
視線は、レオンではなく、カレンに向けられている。
彼女の震えを、指先の強張りを、すべて見逃さずに。
カレンの喉が鳴った。
「ベルン……私……」
言葉を探す彼女より先に、ベルンハルトが伸ばした。
レオンの手首を掴む――のではない。
カレンの手を、包み込むように引き寄せる。
それだけで、十分だった。
ベルンハルトの体温が、確かに伝わる。
逃げ場を作るのではなく、“戻る場所”を示すように。
「……こちらへ」
静かな声。
けれど、有無を言わせない確かさがあった。
レオンは一瞬だけ目を細め、そして、ゆっくりと手を離した。
「ふうん」
面白がるような笑み。
「選ばせてもらえると思ってたんだけどな」
ベルンハルトは答えない。
ただ、カレンの手を離さない。
その沈黙が、何よりも強い拒絶だった。
カレンは、ようやく息を吐いた。
握られた手の温もりに、胸の奥がじんと痛む。
(……こわかった)
そう思ったと同時に、はっきりと分かる。
ここにいるべき場所は、どこなのか。
ベルンハルトは、彼女の手を引いたまま、屋敷の中へと向かう。
一度も、振り返らずに。
背後で、レオンの声が響いた。
「また会おう、カレン」
答えはなかった。
その代わり、ベルンハルトの指が、ほんのわずか、強く絡められた。




