気まずい観劇
劇場の中は、薄暗かった。
天井から下がるシャンデリアの光が、赤い絨毯を柔らかく照らし、観客たちの話し声が低く溶け合っている。
本来なら胸が高鳴るはずの場所。
けれど、カレンの胸にあるのは、期待ではなかった。
(……逃げたい)
そう思った時点で、すでに遅い。
レオンの腕が、自然な動作を装ってカレンの背に回されていた。
強く抱き寄せるわけでもない。
けれど、離れる余地を与えない距離。
「ここがいい」
そう言って案内されたのは、いわゆる恋人席だった。
肘掛けがなく、座れば自然と肩が触れる配置。
カレンは、背筋を伸ばして座った。
(どうして……こんなことに)
視線を前に向ける。
舞台の幕はまだ上がっていない。
その横で、レオンはくつろいだ様子だった。
「この観劇の題材、知ってるか?」
低い声が、耳元に落ちる。
「略奪愛らしい。
魅力的な女は、狙われやすい」
言葉と同時に、視線が向けられる。
覗き込むような距離。
カレンは、思わず口元を引きつらせた。
「……はじまりますよ」
それだけ言って、舞台に視線を戻す。
「はは。そうだな」
レオンも前を向く。
だが、腕は緩まない。
舞台の幕が上がり、音楽が流れ始める。
観客の視線が一斉に前へ向いた、その隙に、カレンはそっと距離を取ろうとした。
その瞬間。
腰に回された腕に、わずかに力がこもる。
逃がさない、というほど強くはない。
だが、拒めない圧。
(……まずい)
心臓が早鐘を打つ。
舞台では、役者たちが情熱的な台詞を交わしている。
愛と裏切りを歌い上げる物語。
けれど、カレンの耳には、ほとんど入ってこなかった。
「どうして……私に……」
小さく、そう呟く。
レオンは、舞台から目を離さないまま答えた。
「ベルンハルトの女に、興味があった」
その言葉に、胸が冷える。
「……じゃあ、もういいですよね」
精一杯、冷静を装う。
「目的は達したでしょう?」
レオンが、ふっと笑った。
「お前さ」
ようやく、こちらを見る。
「俺と、何回会ったか覚えてるか?」
突然の問いに、言葉が詰まる。
(えっと……)
カフェ。
避暑地で。
それから、先日。
「……三回、ですか?」
慎重に答える。
「違う」
レオンの声が、低くなる。
「五回だ」
カレンは、言葉を失った。
(……そんなに?)
思い返そうとしても、曖昧な記憶しか浮かばない。
「何も、感じないのか?」
試すような視線。
カレンは、わけが分からず、首を横に振る。
「……分かりません」
それが正直な答えだった。
レオンは、楽しそうに笑った。
「はは。そうか」
それ以上は、何も言わない。
舞台は進み、物語は佳境へ向かう。
略奪と選択、愛と執着。
カレンは、ただ終わりを待っていた。
やがて、拍手が起こる。
幕が下り、観客たちが立ち上がり始める。
(終わった……)
胸を撫で下ろす。
解放される。
そう、思った。
「食の好みは?」
隣から、当然のように投げられる言葉。
「……え?」
「ディナーだろ。今から」
カレンの中で、嫌な予感がはっきりと形になる。
(……まだ、帰れない)
立ち上がる人波の中で、レオンは先に歩き出し、振り返らずに言った。
「行くぞ」
拒む言葉が、喉で止まる。
逃げ道は、まだ見えなかった。




