甘噛みの余韻
「戻った」
屋敷の門をくぐると、避暑地の涼やかな空気が、遠い出来事のように背後へ溶けていく。
使用人たちが静かに動き、いつもと同じ段取りで、いつもと同じ夜が始まる――はずだった。
指示は簡潔に。
声の調子も、歩幅も、乱れていない。
それなのに。
(……胸の奥が、落ち着かない)
自室へ向かい、扉を閉めた瞬間、ようやく息を吐いた。
衣服の留め具を外し、肩から力が抜ける。
湯殿へ向かう廊下は静かで、灯りが床に細い線を落としている。
湯気が立ち上る。
湯に身を沈めると、熱が皮膚を包み、遅れて心までほどけていく。
目を閉じた。
避暑地の夜景。
宝石箱のように瞬く灯り。
隣に座る彼女の体温。
手を添えたときの、わずかな震え。
(……ああ)
思い返すたび、胸が詰まる。
抱き締めたい衝動が、何度も、何度も込み上げた。
実際にした以上に、心の中で繰り返していたのだと気づく。
彼女が笑う。
照れたように視線を逸らす。
それから、ふいに近づいて
―― 俺の耳を甘噛みした。
「今、私がしたので……次はベルンの番ということで! 楽しみにしてます」
その言葉。
湯の中で、喉が鳴った。
無意識に、指が湯を掬い、肩へ落ちる。
(……参ったな)
からかわれていると分かっている。
それでも、確かに受け取ってしまった。
期待という名の、やわらかな重みを。
彼女は、欲している。
俺の言葉を。
俺の行動を。
そして――俺の番を。
湯の熱が、内側へと染みていく。
視線を閉じても、彼女の姿は消えない。
湖畔で、背後から抱き寄せたときの温度。
首筋に触れた瞬間、彼女が見せた微かな息。
拒まれないどころか、受け入れられた、その確信。
(……しあわせだ)
素直に、そう思えた。
守りたい、という感情の奥に、求めたい、という衝動が重なっている。
どちらも、彼女へ向かっている。
湯から上がり、濡れた髪をかき上げる。
寝台に腰を下ろし、本を手に取る。
―言葉は、近づける。
―間は、伝える。
―行動は、約束になる。
(……なるほど)
静かに、頷いた。
学んだつもりで、実は、確認していたのかもしれない。
自分が、どこまで踏み出したいのかを。
彼女の反応が、すべてを教えてくれる。
笑顔。
照れ。
そして、あの一言。
「楽しみにしてます」
その響きが、今も胸に残る。
次は、俺の番だと、はっきりと示された合図。
(……逃がす気はない)
口に出さず、心の中でだけ告げる。
灯りを落とし、横になる。
目を閉じる直前、もう一度、彼女の笑顔が浮かんだ。
その約束を胸に、静かな夜へと身を委ねた。




