静かな宿の夜
宿へ続く石畳は、夜気を含んでしっとりと光っていた。
遠くで虫の声が重なり、さっきまで宝石箱みたいだった夜景が、静かな記憶へと溶けていく。
「また明日」
振り返った私に、ベルンハルトは一歩近づく。
肩先に落ちる灯りが、彼の表情をやわらかく縁取った。
「ああ、おやすみ」
そのまま、そっと抱き寄せられる。
胸に触れる体温が、さっきのレストランの余韻を確かに思い出させる。
離れ際、名残惜しそうに額へ落とされた口付け。
一瞬なのに、息が浅くなる。
「……良い夢を」
「うん」
隣同士の部屋。
扉が閉じる音が、少しだけ遅れて胸に届いた。
——静かになった廊下で、私は深呼吸する。
心臓が、まだ忙しい。
部屋に入ると、窓の外に夜の湖が広がっていた。
カーテンを少しだけ開け、灯りを落とす。
浴室へ向かい、湯を張る音に身を委ねる。
湯船に身を沈めた瞬間、思わず水面をぱしゃりと叩いてしまった。
さっきの温度、さっきの息遣い。
唇が重なった瞬間の、あの静かな確信。
「……~~~~~~っ」
声にならない声が、湯気に消える。
頬が熱い。耳まで熱い。
のぼせる前から、もう十分あたたかい。
(初めて、だった)
思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなる。
彼の視線が、私だけを見ていたこと。
言葉が少なくても、迷いなく近づいてきたこと。
それが、こんなにも嬉しいなんて。
湯から上がり、髪を拭きながら鏡を見る。
赤みが引かない。
笑ってしまって、また赤くなる。
(……明日)
明日は、湖畔でボート。
彼が言ったその一言が、胸の中で何度も反響する。
部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。
窓の外の水面に、月が揺れていた。
隣の部屋を思うと、不思議と落ち着く。
距離があるのに、近い。
布団に入ると、額に残る感触がふいに蘇る。
短くて、確かで、やさしい。
それだけで、胸がいっぱいになる。
(大好き)
声に出さなくても、ちゃんと届いている気がした。
目を閉じる。
今日の夜景と、抱き寄せられた温度が、ゆっくり重なっていく。
廊下の向こうで、かすかな足音。
きっと、彼も同じように、今日を反芻している。
そう思ったら、安心して眠れた。
静かな宿の夜が、二人の間に、やさしく降り積もっていく。




