偶然に任せない計画
屋敷に戻ると、空気が静かだった。
夕暮れの光が回廊を斜めに染め、
窓の外では風に揺れる木々の影が、ゆっくりと床をなぞっている。
ベルンハルトは外套を外し、
使用人に短く告げた。
「今夜は、誰も通すな」
返事は不要だった。
足音が遠ざかる。
一人になると、ようやく息を吐いた。
(……誘う、か)
つい先ほどまで、
彼女の手の温もりが確かに残っている。
「断らないよ!」
あの即答。
笑顔。
握り返された手。
(……そうだろうな)
わかっていた。
彼女が拒まないことも、
待っていたことも。
だからこそ。
ベルンハルトは、
椅子に腰を下ろし、指を組んだ。
誘うと決めた瞬間から、
頭の中は驚くほど静かだった。
迷いはない。
躊躇もない。
ただ、
どうすれば彼女が安心して、
どうすれば彼女が笑って、
どうすれば――離れたいと思わずに済むか。
それだけが、思考を占めていた。
屋敷の執務机に向かい、
ベルンハルトは必要な書類に目を通す。
夏季休暇。
学園が静まり、
人の流れが緩む時期。
人目が減る。
時間が増える。
(……好都合だな)
カレンが提案する時間は、
いつも柔らかく、楽しげで、
彼女らしい。
だから今度は、
俺が用意する番だ。
地図を広げる。
街から少し離れた湖畔。
木陰が多く、
風が通り、
人の往来は限られている。
宿は一軒だけ。
静かで、
部屋数も少ない。
(……ここだ)
彼女が嫌がらない距離。
それでいて、
「帰ろう」と軽く言えない距離。
逃げ道を塞ぐためじゃない。
選ばせないためでもない。
――迷わせないためだ。
ベルンハルトはペンを取り、
必要な手配を淡々と書き出していく。
馬車。
滞在日数。
食事。
天候を考慮した予備日。
全てが整然と並ぶ。
胸の奥が、わずかに熱を帯びた。
(……俺は)
俺は、彼女に溺れている。
だからこそ、
もう誤魔化さない。
彼女が欲しがっていたのは、
言葉だけじゃない。
選ばれること。
誘われること。
決めてもらうこと。
「……カレン」
名前を口にするだけで、
喉が少し乾く。
彼女が笑う顔を思い浮かべ、
少しだけ口元が緩んだ。
断っていい、と言った。
逃げてもいい、とも。
だが――
あの反応を見てしまえば、
答えは一つしかない。
彼女は、
俺からの一歩を待っていた。
(……もう、戻れないな)
書類を閉じ、
ベルンハルトは立ち上がる。
次に会う時、
曖昧な言い方はしない。
「一緒に行こう」
「俺が連れていく」
「俺と過ごそう」
それでいい。
それがいい。
夏の始まりは、
もうすぐそこまで来ていた。




