彼女が落としたのは
屋敷の門が閉まる音は、いつもより静かに聞こえた。
石畳を踏む靴音が、夜の空気に吸い込まれていく。送って帰る道すがら、何度も振り返りそうになったのを、ようやく胸の奥に仕舞い込む。
「……戻った」
短く告げると、使用人たちの気配が整然と動いた。
だが、今夜は何も要らない。
部屋へ向かう足取りは、少し軽く、少し不器用だ。
私室に入る。
灯りを落とす前に、窓辺へ。夜風が、今日の名残を運んでくる。草の匂い、遠い街の灯、そして――
(……君の声)
膝枕。
あの一瞬の、ためらいと覚悟が混じった視線。
言葉を選ぶように唇が揺れて、それでも逃げずに落とされた声。
「……大好きだよ」
耳元で囁かれた、その一言。
言葉は短いのに、体温を帯びて、確かに“触れた”。
(……ずるい)
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
あれは計算じゃない。演技でもない。
彼女はただ、勇気を出して、真っ直ぐに言っただけだ。
その後の、慌てて両手で顔を覆う仕草。
照れを隠しきれない息。
顳かみに落ちた、あの小さな口付け――
(……完璧だ)
誰に教わったわけでもない。
それなのに、彼女は知っている。
“距離の縮め方”も、“心の掴み方”も。
机に腰掛け、指を組む。
指先が、まだ温い気がした。
(君は……本当に、愛しい)
無邪気で、まっすぐで、時々大胆で。
そして、何より――こちらを見ている。
逃げずに、逸らさずに、信じるように。
今日、彼女が落としたのは、口付けだけじゃない。
声も、覚悟も、未来も。
全部、俺の胸に置いていった。
それを無自覚でやってのけるから、なおさらたちが悪い。
(……次は)
次は、俺の番だ。
君が置いていった分、きちんと返す。
言葉も、温度も、距離も。
灯りを落とす。
暗がりの中で、静かに息を吐いた。
「……良い夢を、カレン」
夜は深く、
胸の奥は、満ちていた。




