理性がほどける音
屋敷の廊下は、夜になるとひどく静かだ。
昼間の使用人の足音も、食器の触れ合う音も消え、ただ蝋燭の灯が壁を淡く照らしている。
自室に戻り、扉を閉めた瞬間。
ようやく、息を吐いた。
(……今日も、無事に送れた)
カレンの笑顔が、浮かぶ。
あまりにも無防備で、疑いを知らず、そして――近い。
机に腰を下ろし、指先を組む。
昼間、何度も触れた彼女の指の感触が、まだ皮膚に残っているような気がした。
授業中。
ペンを握る彼女の手。
わずかに緊張が走った瞬間。
それに気づいて、わざと触れた。
(……やめられなかった)
反応が、愛おしすぎた。
視線を前に向けたまま、彼女の体温だけを感じる。
声を出させない距離で、確実に伝わる熱。
(あれは……)
ふっと、喉が鳴る。
俺は今まで、自分を理性的な人間だと思っていた。
考えて、選んで、最適解を取る。
感情は制御できるものだと。
だが。
カレンは、違った。
彼女が笑うだけで、計算が崩れる。
少し照れるだけで、余裕がなくなる。
期待した目で見上げられると、思考が遅れる。
(……理性が、邪魔だ)
そう、はっきりと思ったのは、今日が初めてだった。
守るための理性。
傷つけないための距離。
安心させるための制御。
――それらが、すべて。
彼女の「嬉しそうな顔」の前では、意味を失っていく。
理性が、感情に。
それを自覚した瞬間、胸の奥に奇妙な安堵が広がった。
(……ああ)
俺は、彼女に溺れている。
認めた途端、楽になった。
抗う必要がなくなった。
カレンが喜ぶなら。
近づくなら。
触れて、安心するなら。
それでいい。
それ以上の理由など、もう要らない。
次は彼女から……。
(……楽しみだ)
机の上に置かれた本に、視線を落とす。
読みかけのページに、栞が挟まっている。
“彼女を溺れさせる愛とは”
苦笑が、漏れた。
「溺れる」のは、
どうやら俺の方らしい。
カレンのためなら、理性など要らない。
彼女が笑ってくれるなら、簡単に捨てられる。
静かな部屋で、ベルンハルトは目を閉じた。
次に触れるときのことを、
次に彼女が見せる反応を、
すでに思い描きながら。




