悪くなかった
昼の鐘が鳴ると同時に、張りつめていた教室の空気がほどけた。
廊下に溢れる話し声と足音。窓から差し込む光は、午前よりも少し柔らかい。
ベルンハルトの隣を歩きながら、カレンはまだ胸の奥が落ち着かないのを感じていた。
――指。
ほんの一瞬、触れただけなのに、熱を帯びた感覚が残っている。
(……ずるい)
そんな思いを隠すように、カフェの扉を押す。
豆を挽く音と、甘い香り。昼のざわめきが心地よい。
二人は窓際の席に腰を下ろした。
向かい合うと、どうしても目が合う。
「……授業中は、だめだよ」
カレンが先に口を開いた。
小さな声。けれど、ちゃんと届く距離。
「ベルンの指が……熱くて。ドキドキし過ぎて、無理」
言い切ってから、遅れて恥ずかしさが押し寄せる。
カップに視線を落とすと、ベルンハルトの気配が近づいた気がした。
「嫌だったか?」
問いは静かで、逃げ道を用意している。
その優しさが、逆に胸をくすぐる。
「……悪くなかった」
短く答えると、彼は小さく笑った。
「ははは。俺もだ」
あっさりと返されて、カレンは思わず顔を上げる。
からかわれているのか、それとも――。
「ちょっと、悔しい」
正直な言葉が零れた。
ベルンハルトは眉をわずかに上げ、楽しそうに首を傾げる。
「次は、カレンからかな?」
(っ……)
血が一気に頬へ集まるのがわかる。
返事の代わりに、視線を逸らした。
運ばれてきた昼食は、見慣れたはずなのに今日は特別に見えた。
同じテーブル。向かいの彼。
それだけで、味が変わる。
「観劇の話、まだ聞けていないな」
ベルンハルトが、さりげなく話題を戻す。
気遣いだとわかるから、胸が温かくなる。
「うん……すごく、良かった。ああいうの、好き」
「そうか」
短い相槌。
でも、その一言に含まれる満足が伝わってくる。
カレンはフォークを置き、指先をテーブルの縁に揃えた。
ベルンハルトの視線が、そこに落ちる。
触れない。
けれど、近い。
(……今は、これでいい)
そう思えた自分に、少し驚く。
「ベルン」
愛称で呼ぶと、彼の目が柔らかくなる。
「こうして一緒にいられる時間……好きだよ」
言い切ると、胸の奥がすっと軽くなった。
「俺もだ」
返事は即座だった。
ためらいがない。
カフェの外では、木々が風に揺れている。
行き交う人々の中で、二人だけが少しだけ違う時間を生きている気がした。
「……次は、どんなことをする?」
ベルンハルトが聞く。
問いかけというより、共有。
カレンは少し考えてから、微笑んだ。
「今度は、私から」
その言葉に、彼はまた静かに笑った。
何気ない昼。
甘い会話。
それだけなのに、確かに特別。
カップの底に残る温もりのように、
この時間は、ゆっくりと二人の中に溶けていった。




