帰り道の実践
馬車の中は、静かだった。
街の灯りが窓の外を流れていくたび、揺れに合わせて影が重なる。
その隣で、カレンは落ち着きなく、けれど隠しきれないほど機嫌が良さそうだった。
(……わかりやすい)
ベルンハルトは表情を変えず、窓の外を眺めたまま、視線だけで彼女を追う。
指先が何度も膝の上で動き、唇が緩み、時折小さく息を吸う。
観劇の余韻。
そして――言えたことの喜び。
「私もベルンハルトに溺愛されたいな」
あの言葉を思い出すだけで、胸の奥がじわりと熱を持つ。
(……ああ、そうか)
彼女は、望んでいる。
言葉で、態度で、確かめられることを。
馬車が屋敷の前で止まる。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ、別れ際。
――だが、今日は。
ベルンハルトは一歩、距離を詰めた。
カレンが驚いて顔を上げるより先に、彼は指先で彼女の髪をすくう。
柔らかい感触。
灯りに照らされて、淡い色が揺れた。
視線を合わせる。
逃げ場を作らず、けれど強すぎない距離で。
舞台で聞いた言葉が、脳裏をよぎる。
だが、そのまま使う気はなかった。
これは――試しではあるが、借り物ではない。
自分の声で。
自分の熱で。
「……本当は、君を今夜……返したくない」
一瞬。
本当に、時間が止まったようだった。
カレンの目が見開かれ、次いで一気に頬が赤く染まる。
声にならない息が喉で弾ける。
「~~~~~っ」
(……効いたな)
ベルンハルトは、内心で確信する。
同時に、胸の奥が妙に満たされるのを感じた。
「気に入ったか?」
からかうように言えば、カレンは慌てて顔を覆う。
「も、もう!!!」
耳まで赤い。
思わず、喉が鳴る。
「ははは」
軽く笑ってみせるが、目は逸らさない。
この反応も、この距離も――悪くない。
「……じゃあ、また明日」
「ああ。良い夢を」
名残を残したまま、扉が閉まる。
馬車が動き出し、カレンはその場に残される。
彼の姿が見えなくなった瞬間、膝に顔を埋めた。
(あの顔……あの声……)
胸が、落ち着かない。
一方、ベルンハルトは帰路の中で、指を組み、ゆっくり息を吐いた。
(……溺愛、か)
本屋で手に取った一冊の言葉が脳裏をよぎる。
――言葉は、心に触れる最初の手段。
(……なるほど)
次は、もう少し近く。
もう少し、深く。
同じ夜を迎えながら、
二人はそれぞれ、同じ場面を何度も反芻していた。




