意味のない通過
学園の午後は、音が少ない。
授業と授業の合間、
廊下には人影がまばらで、
開け放たれた窓から風が通り抜けていく。
カレンは書類を胸に抱え、
歩きながら周囲を見渡していた。
視線は、無意識のうちに前方へ向かう。
探しているのは、ただ一人。
――ベルンハルト。
「もう少しで戻る」と言っていた。
それを疑う理由はない。
だから彼女の足取りは軽く、
心は穏やかだった。
そのとき、
背後から声がかかる。
「やぁ、また会ったね。可愛子ちゃん」
カレンは足を止め、振り返った。
一瞬、戸惑ったように目を瞬かせる。
「……え?」
声色に警戒はない。
驚きも、ごく薄い。
(なに急に)
そう思っただけで、
それ以上の意味は浮かばない。
相手は少し離れた場所に立っていた。
近づいてこない。
ただ、こちらを見ている。
その視線に、
カレンは小さく首を傾げた。
「あの……? 何か……?」
問いかけは、柔らかい。
けれど、深く踏み込む気配はない。
男は一拍置いて、短く答えた。
「……いや」
それだけ。
理由も説明もない。
カレンは一瞬だけ困ったように眉を寄せ、
すぐに気持ちを切り替える。
(……用事じゃなかったのかな)
それ以上考えることもなく、
彼女は軽く頭を下げた。
「……失礼します」
そして、そのまま走り出す。
理由は単純だった。
視線の先に、
待っていた姿を見つけたから。
「ベルンハルト!」
呼ぶ声は、明るい。
彼はすぐにこちらを向き、
カレンを見つけて表情を緩めた。
彼女は迷わず近づき、
自然な動作で腕に抱きつく。
「待ってた!」
その仕草に、迷いはない。
ためらいもない。
ベルンハルトは一瞬驚いたように目を瞬かせ、
それから静かに受け止めた。
「……すまない。待たせたな」
「ううん。全然!」
二人の距離は近い。
重なる影。
触れ合う体温。
そこにあるのは、
疑いようのない“日常”だった。
少し離れた場所で、
立ち止まっていた男が、その光景を見る。
彼女は一度も振り返らない。
ただ、
最初から決まっていた行き先へ戻っただけ。
――カレンにとっては、
それだけのことだった。
一瞬の会話。
意味のない通過。
けれど。
その背中は、
確かに誰かの視線を引き裂いていた。
何も起きなかった。
だからこそ、
何かが静かに、ずれていった。




