小さなざわめき
朝日が眩しい。
カーテン越しの光が、部屋の床に淡い色を落としている。
カレンは身支度を整えながら、鏡の前で一度だけ深呼吸をした。
(今日は、ちゃんと早めに準備できた)
理由は、ひとつしかない。
ベルンハルトが迎えに来る時間より、
少しだけ早く、心がそわそわしていたからだ。
いつもの時間。
……より、ほんの少し早く。
馬車の音が聞こえた瞬間、胸が跳ねた。
「おはよう」
門の外に立つ彼は、いつも通りの落ち着いた表情をしている。
けれど、今日はなぜか――来るのが早い。
「ああ、おはよう」
その声を聞いただけで、自然と笑顔になる。
ベルンハルトは一拍置いてから、静かに手を差し出した。
「……手を」
「ありがとう」
指が触れ合った瞬間、
昨日の余韻が、ふっと胸の奥に蘇る。
(あ、あったかい)
いつもの馬車。
いつもの隣の席。
でも今日は、なぜか距離が近く感じる。
肩が触れていないのに、
体温だけが伝わってくるみたいで。
(ぽかぽかする……)
窓の外を流れる街並みを眺めながら、
カレンはそっと息を整えた。
学園に着き、
二人並んで教室へ向かう。
その途中。
「ベルンハルト」
聞き慣れない、軽い声。
ベルンハルトは足を止めず、視線だけを向けた。
「……何だ」
通路の柱にもたれかかるように立っていたのは、
見覚えのある留学生。
(あ……)
昨日、街で見かけた――。
彼は楽しそうに口角を上げる。
「相変わらず固いな。少しくらい愛想よくしたらどうだ?」
「用がないなら失礼する」
淡々と返すベルンハルト。
そのまま通り過ぎる、はずだった。
ふ、と。
留学生の視線が、カレンに向く。
「おはよう、可愛子ちゃん」
不意打ちの声に、思わず足が止まる。
「……え、えっと……お、おはようございます?」
誰だろう。
でも、失礼ではなさそうだし――。
その瞬間。
ベルンハルトの歩幅が、わずかに広がった。
「失礼する」
言葉と同時に、
カレンの手を引いて、その場を離れる。
「クックック。
またな!」
背後から、楽しそうな笑い声。
カレンは振り返りながら、小さく首を傾げた。
「あっ、留学生の……名前、なんだっけ……?」
ベルンハルトは、即答だった。
「思い出さなくていい」
「え?」
「必要ない」
それ以上は、何も言わなかった。
教室に入り、授業が始まる。
カレンはノートを取りながら、
さりげなく視線を巡らせた。
(王子のクラスは、今日は合同じゃないし……
食堂も行かないし……)
無意識に、
“誰かと鉢合わせしそうな場所”を避けている自分に気づく。
ふ、と。
横を見ると、
ベルンハルトがこちらを見ていた。
責めるような視線ではない。
むしろ――柔らかい。
(……?)
一瞬、微笑んだようにも見えた。
授業の合間。
「カレン。ちょっといいかな?」
振り向くと、
騎士科の制服姿のエルンストが立っていた。
「え? エルンスト?どうしたの?珍しい」
「個人的に、聞きたいことがあって……」
ちらり、と。
視線が、周囲を確認する。
カレンは首を傾げた。
「なに?」
「……アイナのことで」
「あ、アイナちゃん?」
胸が、ひくりと動く。
「どうしたの?」
エルンストは少し言い淀んでから、言った。
「変なことを聞いている自覚はある。
カレンとアイナは、昔からの知り合いだったか?」
「ごめんなさい。
私には……エルンストの彼女、っていうことしか……」
一瞬の沈黙。
「……そうか」
エルンストは、小さく息を吐いた。
「すまない。ありがとう」
「うん」
去り際、彼は少しだけ足を止める。
「……髪。
あの時は、すまなかった」
「あ……」
何のことか、すぐに思い出す。
「ううん。大丈夫だよ」
エルンストは軽く頭を下げて、去っていった。
その背中を見送ったあと。
――気づく。
教室の後方。
ベルンハルトが、
ずっとこちらを見ていた。
視線は静かで、感情を読ませない。
でも。
(……見て、たよね)
会話の最初から、最後まで。
カレンは、なぜか小さく背筋を伸ばした。
(……私、何か、変なことしたかな)
でも、すぐにベルンハルトは視線を外し、
いつもの落ち着いた横顔に戻る。
何も起きていない。
――はずなのに。
胸の奥に、
小さなざわめきが残ったままだった。




