良い一日だった
屋敷の門をくぐると、外の喧騒がすっと遠ざかった。
砂利を踏む音が、規則正しく耳に届く。
「戻った」
短く告げると、使用人たちが静かに動き出す。
いつも通りの流れ。
いつも通りの距離感。
「今日は、もう休む。明日の予定は朝に」
それだけを伝えて、足を進める。
声は落ち着いている。歩調も一定だ。
――外から見れば、何ひとつ変わっていない。
だが。
(……落ち着け)
胸の奥が、妙に軽い。
ふわふわと浮いているような感覚が、まだ消えない。
私室に入ると、扉を閉める音がやけに大きく響いた。
上着を外し、きちんと定位置に掛ける。
無駄な動作は一切ない。
(いつも通り、だ)
そう言い聞かせるように、息を整える。
湯殿へ向かい、衣服を脱ぎ、湯気の立つ浴槽に足を入れた。
温かさが足元から這い上がり、
肩まで沈めた瞬間――
「……っ」
喉から、思いがけず短い息が零れた。
湯の熱だけじゃない。
それは、分かっている。
目を閉じると、
今日の光景が、勝手に浮かび上がってきた。
カフェで、俯いた顔。
私服の首元から覗いた、白い肌。
夕陽の中で、こちらを見上げて笑った表情。
(……将来の、旦那様)
あの言葉。
迷子の子どもに向けた、何気ない一言。
冗談めいた調子で、当然のように。
「私にはもう、将来の旦那様がいるの」
(……反則だろ)
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
湯の中にいるというのに、
内側から温度が上がっていくのが分かった。
喉が渇く。
息が、浅くなる。
「……ふ」
吐いた息が、水面を揺らす。
将来。
その二文字が、思った以上に重かった。
彼女は、軽く言っただけだ。
深い意味も、覚悟も、たぶんない。
だが――
こちらは違う。
(……自覚が、なさすぎる)
優しさも。
無防備さも。
そして、無意識の独占も。
全部。
湯の中で、額に手を当てる。
指先に、熱が伝わる。
触れていない。
触れてなど、いないのに。
あの言葉ひとつで、
ここまで身体が反応するとは思わなかった。
(…はぁ)
自嘲気味に、息を吐く。
彼女の唇に視線が落ちた、あの瞬間。
気づいてしまったからこそ、動けなかった。
――もし触れていたら。
そこまで考えて、
意識的に思考を切り替える。
(……まだだ)
抑えられる。
抑えるべきだ。
そう判断している。
理性は、正しく働いている。
それでも。
湯から上がり、
濡れた髪をかき上げたとき、
鏡に映る自分の表情を見て、わずかに眉を寄せた。
落ち着いているようで、
どこか、目が熱を帯びている。
(……参ったな)
彼女が笑ったこと。
「また一緒に」と言ったこと。
そして、将来の旦那様、という言葉。
それらが、
胸の奥に、静かに積もっている。
触れなくても、
近くにいなくても、
あんなふうに、
当然のように名前のない未来を示されると――
「……困る」
低く零した声は、
誰に届くこともなく、湯気の中に溶けた。
寝台に腰を下ろし、
窓の外の夜を眺める。
星は見えない。
だが、不思議と気持ちは明るい。
(……今日は、良い一日だった)
彼女にとっても。
そして――自分にとっても。
それを認めた瞬間、
胸の奥が、また少し熱を持った。
「……おやすみ、カレン」
名を呼ぶと、
その響きだけで、心臓が跳ねる。
抑えている。
だが、消えてはいない。
今日という一日は、
彼女とは違う意味で、
確かに、俺の中に残っていた。
抑えた熱ほど、遅れて満ちる日だった。
ベルンハルト視点




