袖を掴む指先
朝の空気は澄んでいた。
学園の石畳に落ちる影が、いつもよりくっきりして見える。
ベルンハルトの手は、今日も私の手を取っていた。
指先が絡み、掌が合わさる。
それが、当たり前のように。
(……昨日から、ずっと)
触れられている時間が長い。
でも、不思議と重たくはない。
むしろ――
触れられていない瞬間の方が、落ち着かない。
彼が先生に呼ばれ、ほんの少しだけ手を離したとき。
掌に残った温度が、すうっと引いていく。
(……あ)
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
ほんの数歩、距離が空いただけなのに。
視界から外れただけなのに。
私は、無意識に彼の背中を目で追っていた。
(……変だよね)
前なら、
一人の時間は嫌いじゃなかった。
でも今は、
触れられていない時間が、妙に長く感じる。
背後から人の流れが来る。
一歩、よけようとした瞬間。
「カレン」
呼ばれて、振り返る。
ベルンハルトが、戻ってきていた。
気づけば、私と他人の間に、彼が立っている。
「人が多い」
そう言いながら、
自然な動作で、私の背中に手を回す。
囲われた。
(……あ)
その言葉が、頭に浮かんで、
すぐに消した。
守られているだけ。
そう思おうとした。
でも、歩き出すと、
彼の手は離れない。
腰の位置。
背中の中央。
逃がさない、でも痛くない力。
(……いつから?)
いつから、こんなふうに――
彼の腕の中が、定位置になったんだろう。
授業の合間。
席を立つたび、
ベルンハルトは必ず私の位置を確認する。
目が合う。
逸らさない。
(……見てる)
責めるような視線じゃない。
不安そうでもない。
ただ、
「そこにいるか」を確かめる目。
その視線が、
不思議と心地いい。
けれど、同時に、
胸の奥が、ちくりとした。
昼休み。
彼が資料を取りに行くと言って、
一人で残った、ほんの数分。
私は、落ち着かなかった。
ベンチに座っても、
視線が彷徨う。
(……遅い)
そんなこと、思ったことなかったのに。
手持ち無沙汰で、
自分の手首を触る。
さっきまで、
彼の指があった場所。
(……触れてないと、変になるの、私?)
そう思った瞬間、
影が落ちた。
「……待たせたか」
ベルンハルトだった。
返事より先に、
彼の手が、私の手首を包む。
その瞬間、
胸のざわつきが、嘘みたいに静まった。
(……あ)
これだ。
この感覚。
触れられて、
落ち着く。
それを自覚してしまったことが、
少しだけ、怖い。
「……カレン?」
黙り込んだ私を、不思議そうに見る。
「なんでもない」
そう答えながら、
私は、彼の袖を指先で掴んでいた。
離れないように。
彼は、それを止めなかった。
むしろ、
私の指を包み込むように、
掌を重ねてくる。
「行こう」
短い言葉。
でも、
「一緒に」という意味が、はっきり含まれている。
歩きながら、
彼の歩幅に合わせる。
気づけば、
私の世界は、
彼の半歩内側に収まっていた。
触れられていない時間が、
不安になる。
触れられていると、
安心する。
それが、
当たり前になりつつある。
ベルンハルトの手は、
今日も、離れない。
私は、
それを振りほどく理由を、
見つけられないまま、
彼の隣を歩いていた。




