安心と、追いつかない衝動
カレンの言葉が、胸の奥に残っていた。
逃げない。
向き合う。
触れていい。
それだけの言葉だったはずなのに、
頭の中で何度も反芻してしまう。
(……逃げない、か)
安心した。
確かに、安心した。
消えてしまうかもしれないという想像が、
ほんの一瞬、遠のいた。
だからだろう。
次の瞬間、俺の身体は、考えるより先に動いていた。
抱き締めた感触が、まだ腕に残っている。
細い背中。
服越しに伝わる体温。
胸元に預けられた額の重み。
(……ここにいる)
それを、何度も確かめた。
カレンが逃げなかったことが、
嬉しくて、怖かった。
もし、今度こそ本当に離れられたら。
もし、俺が手を緩めた瞬間に。
そんな想像が、頭から離れない。
理屈は分かっている。
触れすぎだ。
距離が近すぎる。
でも――
(触れないと、壊れそうだ)
自分でも驚くほど、率直な感情だった。
手を伸ばしたのは、
失う前に、確かめたかったから。
髪に触れたとき、
頬をなぞったとき、
指先が額に触れたとき。
カレンの表情が、逃げなかった。
それが、何よりの救いであり、
同時に、底なしの許可のようにも思えた。
(……だめだな)
そう思いながらも、
腕を解くことはできなかった。
抱擁は、優しいはずだった。
けれど、内側では、
「離したくない」という衝動が膨れ上がっていく。
腰に回した手に、
ほんのわずか力を込める。
逃げない。
逃がさない。
言葉にはしなかった。
けれど、身体は正直だった。
カレンの呼吸が、近い。
吐息が、首筋に触れる。
それだけで、
胸の奥がざわつく。
(……落ち着け)
自分に言い聞かせる。
彼女は、信じてくれた。
だから、応えなければならない。
それなのに。
(触れていると、もっと欲しくなる)
安心したい。
独りにしないでほしい。
視界から消えないでほしい。
全部、同じ衝動だった。
ようやく腕を緩めたとき、
カレンの体温が離れていくのが、怖かった。
だから、最後にもう一度、
手を伸ばした。
指先で、手首を包む。
離れない位置に。
「……さっきの話」
声が、思ったより低くなった。
「逃げないって言ったな」
確認するような言葉。
でも、返事はもう分かっている。
彼女は、頷いた。
その仕草だけで、
胸が詰まる。
(……これ以上、どうすればいい)
理性は、
「落ち着け」と言っている。
でも、感情は、
「今、離したら終わる」と叫んでいる。
俺はまだ、
どちらを選ぶべきか、分からなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
カレンがここにいて、
触れられる距離にいる限り。
俺は――
手を放す選択肢を、持てそうにない。
ベルンハルト視点




