95話
「――そしてこの事件以来、俺は猫や女性が苦手になったという訳だ。‥‥‥嫌な話を長々と聞かせて済まなかったな」
『宰相様‥‥‥』
話を語り終えたレイザックは真っ青な顔をして震えていた。
これが寒さによるものでない事は、彼の様子を見れば明らかだった。おそらく事件の記憶を呼び起こすのは、彼にとって相当辛い事だったのだろう。
温室の床に座ったままで心配そうに見つめてくるアイカを見て、レイザックが苦笑する。
「俺は、幼い頃からよく女性に付きまとわれたり、しつこく言い寄られたりしていたせいで、元々女性が苦手だったのだが、この事件に遭ってからはますます拍車がかかり、そばに寄られるだけで鳥肌が立つようになった。かつてはあんなに好きだった猫も、今ではほんの少し見かけただけで恐怖や嫌悪感が抑えられなくなる」
そう語るレイザックの表情は苦しそうだった。
「これまでに何度も苦手意識を克服しようと試みたが、そのたびに体が拒絶反応を起こして上手くいかなかった。それでも女性に関しては、二人きりになるのを避けたり、長い時間接触さえしなければ、何とか耐えられるようになった。だが、猫嫌いのほうは、結局いまだにどうにもならないままだ――全く、我ながら情けなくて泣きたくなる」
そう言って自嘲する彼を見て、アイカはずきりと胸が痛くなった。
(ああ、この人も私と同じように、過去に心を囚われて苦しんでいたのね)
そう思うと、あれほど恐ろしかったはずの〈氷の宰相〉に同情すら覚える。
『‥‥‥私は、宰相様が情けないとは思いません。これほどまでに悲しい事件を経験したのに、懸命に前に進もうとしているのですから』
「悲しい、か。この事件を知った時、不快に思ったり怖がったりする者は大勢いたが、君はそうではないのだな」
『よくわかりません‥‥‥。でも怖いとは思いませんでした。ただ、宰相様のお話は、聞いていてとても悲しく思えたのです』
好いた相手の幸せを願うのではなく、憎しみを募らせて狂ってしまった令嬢が。
令嬢の身勝手な凶行に利用され、無残に命を散らした甘えん坊の猫が。
主を守り通した代償として、騎士として生きる事を諦めなければならなかった護衛騎士が。
大切な相手から思い出す事を拒絶されて、忘れ去られようとしている彼らが。
──そして、どんなに彼らの事を忘れようとしても、ずっと忘れられずに苦悩しているレイザックが。
誰もが苦しみの海に深く沈んだまま、過去から浮き上がれずにいる――それが、ただただ悲しかった。
「俺にとってあの事件は、悲しいというよりも辛い記憶でしかない。だから早く記憶から消し去ってしまいたいのだが、どういう訳か何年経っても忘れる事ができなくてな‥‥‥」
青い顔をしたままで苦笑いを浮かべるレイザックを見て、アイカは顔を曇らせる。
(この人は、きっと自分では気づいていないのね)
自分を傷つけた幼馴染の令嬢と愛猫の事をアイカに語った時、レイザックの顔に浮かんでいたのは憎しみではなく、深い悲しみと後悔だった。
アイカは顔を上げると、真っすぐにレイザックの瞳を見つめて問いかけた。
『あなたがずっと事件を忘れる事ができないのは、大切な存在だった幼馴染の令嬢とノアさんを自分のせいで不幸にしてしまったと思っているから――そんな自分自身をいまだに許せずにいるからではないですか?』
精霊を通してその言葉を聞いたレイザックがはっとしたのを見て、彼女は悲しそうに目を伏せた。
(ああ、やっぱり自覚していなかったのね──もしかしたら彼は、氷のように冷たい人なのではなく、誰よりも誠実で優しい人なのかもしれないわ)
だから、アルケス王子の嘘を鵜呑みにして自分を殺めようとした令嬢を憎もうとせず、全てを彼女のせいにして自分が楽になる事を選ばなかった。
それどころか、今も心のどこかで、令嬢も飼猫も護衛騎士も、みな自分が至らなかったせいで不幸になったと思っている。
後悔の念が棘となって心に刺さったままで、ずっと血を流し続けているのだ。




