94話
※少し残酷な部分がありますので、どうかご注意ください
今から七年前、レイザックがまだ十五歳で成人したてだった頃。
宰相を務めるロイスレント公爵の一人息子として生まれ、武芸や学問に優れているだけでなく、両親譲りの美貌をも兼ね備えていた彼は、成人して社交界に出た時からずっと、数多くの令嬢たちから言い寄られていた。
だが当時のレイザックは、氷の上位精霊・キールとの契約に成功したばかりで、氷魔法の修練に夢中だった。
そのため、恋愛事などにかまけている暇はない、とばかりに、見目よい令嬢たちからどんなに言い寄られようとも一切靡かず、既に女性嫌いだった事もあって彼女たちに付け入る隙を与えなかった。
すると、レイザックはいつしか〈氷の貴公子〉と呼ばれ、令嬢たちはますます彼を射止めようと躍起になり、同年代の男性たちは彼に対して羨望と嫉妬の眼差しを向けるようになった。
中でも、レイザックが現れるまで、その華やかな美貌で常に令嬢たちの関心を一身に集めていた第二皇子アルケスは、好意を持った令嬢がことごとく一つ年下のレイザックに靡いてしまうために彼を憎むようになり、自分を袖にした令嬢たちに「レイザックは実は君に気があるようだよ」と嘘を吹き込んではその気にさせ、恋人気取りの彼女たちが彼から拒絶されて一方的な恨みを募らせていく様を見ては昏い喜びに浸っていた。
その日、先触れもせずに突然ロイスレント邸を訪れた、レイザックの幼馴染の侯爵令嬢も、アルケスに騙された女性たちの一人であり、つい先日の夜会の席でレイザックに一方的な想いをぶつけて彼を困惑させた挙句、交際を断られていた。
その幼さの残る顔には似つかわしくない漆黒のドレスに身を包み、町の辻馬車で公爵邸に乗り付けた彼女は、供も無く一人きりで門の前に立つなり、レイザックに謝罪させて欲しいと泣き叫んだ。
不幸にもこの時両親は不在であったため、門番からの知らせを受けたのはレイザック本人だった。
当時、公爵家本邸の執事だったクラウスは、令嬢のただならぬ様子を見て、屋敷には入れずに丁重に追い返すようレイザックに進言したが、彼は幼馴染の令嬢の想いに応えられずに悲しませてしまった、という後ろめたさから、とりあえず話だけでも聞こうと屋敷に招き入れてしまった。
──だが結局、この判断は、のちに彼に大きな悲劇をもたらす引き金になってしまった。
応接室に通された彼女は、応対のために部屋を訪れたレイザックの姿を見た瞬間、ニタリと笑って、手にしていたバスケットから取り出した何かをいきなり投げつけてきた。反射的に避けようとしたレイザックは、投げつけられた物の正体を知った途端、愕然として固まった。
それは、昨日から行方不明になっていた彼の愛猫のノアだったのだ。
ノアの鋭い爪は、呆然としたまま無防備になっていたレイザックの肩をたやすく切り裂いた。甘えん坊で、いつも彼の後を追いかけては抱っこをせがんでいた可愛らしい飼い猫は、侯爵令嬢に無理やり薬を飲まされたせいで正気を失って狂暴化しており、大好きなレイザックの事がわからなくなっていた。
変わり果てた姿のノアに深手を負わされたレイザックは、衝撃のあまり依然として動けずにいたが、すぐそばで控えていた護衛騎士が彼をかばって狂乱状態のノアを斬り伏せてくれたおかげで、それ以上は手傷を負わずに済んだ。
その場でただ一人、狂ったように哄笑していた令嬢も、駆けつけて来た屋敷の者たちに取り押さえられ、これでやっと事件は終わったかのように見えた。
だが、皆が安堵して胸をなで下ろしたその時、レイザックと護衛騎士が相次いでその場に倒れ込んだ事で辺りは再び騒然となった。実はノアの爪には、幼馴染の令嬢によって猛毒が仕込まれていたのだ。
倒れたレイザックが意識を失う直前に目にしたのは、無理やり仕込まれた薬と毒のせいで血走った瞳をカッと見開き、吐瀉物と血にまみれながら苦悶の表情で息絶えたノアと、毒を受けて苦しみながら痙攣している、幼い頃から年の離れた兄のように慕っていた護衛騎士、そして倒れたレイザックを見て狂ったように笑い続ける令嬢の姿だった。
その後、レイザックと護衛騎士は三日三晩のあいだ生死の境をさまよったが、なんとか一命をとりとめる事ができた。
加えて幸いにも、レイザックは何の後遺症もなく元通りに回復する事ができた。だが、彼をかばってノアの爪で体を何か所も切り裂かれた護衛騎士は、右手右足の麻痺と体内の魔力回路の破損という重い後遺症を負ってしまい、護衛騎士を辞す事を余儀なくされた。
幼馴染の侯爵令嬢は北の果ての修道院送りになったと聞かされたが、心を壊した彼女がその後どうなったのかまでは誰も教えてくれなかった。
また、この事件が起こる原因を作った第二王子アルケスは、侯爵令嬢に危険な毒薬を与えて犯行をそそのかしていた事が発覚し、これまでにも面白半分に似たような事件を多数起こしていたバレて問題視された結果、王位継承権を剥奪の上、罪を犯した王族が収容される場所として有名なカニングム塔に幽閉された。
こうしてようやくこのおぞましい事件は幕を引いたのだが、レイザックの心には、自分を庇って重傷を負った護衛騎士への罪悪感と、猫と女性への強い忌避感が深く刻み込まれたのだった。




