93話
(公爵邸で会った時とは別人みたい‥‥‥)
アイカを拒絶した時の無慈悲なまでの冷徹さはすっかり消えており、代わりにその表情には深い悔恨が刻まれていた。蒼白い顔をした彼の目の下には濃い隈が居座り、美しかった髪は艶を失いパサついている。
明らかに憔悴しているレイザックを見て、驚きのあまり恐怖する事も忘れてぽかんとしていると、再び彼が話しかけて来た。
「怖がらせていたらすまない。君がここにいる事は、俺の契約精霊のキールが教えてくれた」
見ると、レイザックの頭の後ろに浮かんでいる白い子狐の姿をした精霊が、彼には気づかれないようにして、ちらちらと心配そうにこちらの様子を伺っている。
「君は俺の命だけでなく母の病をも治してくれたと聞いた。その礼を言わせて欲しい。‥‥‥本当にありがとう。心から感謝する」
レイザックは傘を畳むと、温室の中に向かって深く頭を下げた。
「そして、命の恩人である君に対して酷い態度をとってしまった事――根拠のない噂話を聞いて君を悪女ではないかと疑い、理不尽な怒りや憎しみをぶつけてしまった事について、謝罪させてほしい。‥‥‥本当に申し訳なかった」
端正な顔を苦しそうにゆがめた彼の体を、音をたてて降りしきる雨が容赦なく濡らしていく。
「君の身の安全を保障すると言っておきながら、俺が君を疎んじて指示を徹底しなかったせいで、使用人たちが君に危害を加えようとした事についても謝罪する。その結果、君が人を恐れるようになるほど傷ついてしまったという事は、母から聞いている。本当に済まなかった」
そう言ってレイザックは再び頭を下げた。すっかり濡れてしまった髪の毛からは、ポタポタとしずくが垂れている。
レイザックはそれきり何も言わず、悲痛な面持ちでその場に佇んでいる。その様子からは、演技ではなく心からの謝罪である事が見て取れた。
『嘘じゃないー』
『きちんと反省してるー』
(確かに嘘を言っているようには見えないわ)
しばらくの間迷っていたが、一向に立ち去る様子のないレイザックを雨の中で立たせたままにしておくのは、やはりばつが悪い。仕方なくアイカは温室の入口にそろりと歩いて行った。
『れいざっく、出て来てくれたよ!』
「‥‥‥っ!」
契約精霊のキールに呼びかけられ、姿を現したアイカに気が付いたレイザックが僅かに身を引いた。その表情に一瞬恐怖がよぎったのを見て、思わず目を瞠る。
(この人は、猫を嫌っているというより、怖れているのかしら?でも、どうして‥‥‥)
離れた場所でピタリと立ち止まったアイカを見てはっとしたレイザックは、濡れた髪をかき上げながら自嘲する。
「君に謝罪するために来たのに、俺はまた‥‥‥。情けない話だが、猫を見ると反射的にこうなってしまうんだ。どうか許してほしい」
そう言って彼は再び頭を下げ、子猫が首を傾げてこちらを伺っているのを見た。
「君はどうして俺がこんなにも猫を忌避するのか──きっと不思議に思っているだろうな」
アイカは素直にこくりと頷いた。
「そうか‥‥‥。俺が猫を嫌っているせいで結果的に命の危険にさらされた君には、理由を知る権利がある。あまり気持ちのいい話ではないが、どうして俺がこんな風になってしまったのか聞いてもらえるだろうか?」
『‥‥‥』
返事をする代わりに、アイカは小声で精霊に頼んで温室の扉を開けた。
(話をしてもらうのに、濡れたままでは風邪をひいてしまうものね)
「‥‥‥ありがとう」
レイザックは少しだけためらった後、ゆっくりと中に入って来た。すかさず近くにいた精霊たちが備え付けの丸テーブルの椅子を引いたのに気が付くと、小さく礼を言ってから濡れたコートを椅子の背にかけて腰を下ろした。
火の精霊たちが、ずぶ濡れになった体を冷やさないよう空気を温めると、レイザックがほろ苦い笑みを浮かべて再び礼を述べた。
「少しだけ長い話になる」
レイザックはそう前置きして深く息を吐くと、彼が過去に経験した痛ましい事件について語り始めた。




