92話
アイカが温室に閉じこもるようになってから六日目。その日は朝からしとしとと雨が降っていた。
昨日までと同様に食欲は無かったが、このままだと倒れてしまう、と精霊たちに懇願され、仕方なくトマスが持ってきたスープと果実をいくらか口に入れた後、アイカは寝床に戻ってぼんやりと温室の外の庭園を見つめていた。
(このまま閉じこもっていても、なにも解決しないのに‥‥‥)
頭ではそう理解しているのだが、それでも屋敷に行くために温室を出ようとすると、レイザックがいる、と思っただけで体がすくんで動けなくなってしまうのだ。
マリーナやオルトランがレイザックを伴って帰って来た日の夜、夫妻は屋敷の精霊たちに温室にいる彼女への伝言を頼み、レイザック本人が彼女に謝罪したがっている事を告げた。
『でも、れいざっくに会うのはまだ怖いだろうから、無視してもいいってー』
『まりーなたち、無理して会う事はないって、言ってたー』
『信じるのには時間がかかるだろうから、って言ってたよー』
『そう‥‥‥。マリーナさんには、私が考えていることはお見通しなのね』
マリーナが想像している通り、アイカはレイザックが謝罪したがっているという話を、無条件で信じる事ができないでいる。口では謝りたいと言っていても本心はわからないからだ。
もし、レイザック本人には全く謝罪する気が無く、両親であるマリーナたちに叱られて仕方なく謝罪しようとしているのなら、またしてもアイカはあの嫌悪で染まった冷たい目に晒される事になる。彼女は公爵で見たレイザックを思い出して、ぶるりと身を震わせた。
彼への疑念が晴れないせいで、今日もまた温室の入口までは行ったものの、結局別邸に行く勇気が出ず、寝床に戻ってぐるぐると思い悩んでいる。
そんな事を繰り返してばかりの自分が心底情けない。
(──私はどうしてこんなに意気地なしなのかしら)
心配する精霊たちに囲まれながら彼女が自己嫌悪に陥っていると、不意に誰かが温室に近づいて来る事を知らせる鈴の音がした。
(トマスさんはさっき帰ったばかりだし、一体誰かしら?)
庭園から温室へと通じる道は叩きつけるような雨で白くけぶっている。目を凝らしてしばらく眺めていると、傘を差した人影がこちらへ向かって歩いて来るのが見えた。しばらくして、人影が近くまで来て傘に隠れていた顔が露わになった時、アイカはひゅっと息を飲んだ。
温室にやってきたのは、レイザックだった。
(なぜ、この人がここに?今までは精霊たちが私に近づけないように阻んでくれていたのに、どうやってここまで来たの?)
『屋敷の精霊に、あいつが誓約を持ちかけたー』
『あいかに会わせてもらう代わりに、もしあいかを傷つけたら命を奪われてもいい、って誓約をかわしたのー』
『ええっ?!』
アイカは目を丸くした。冷静沈着であると評判の〈氷の宰相〉が、まさかそんな無謀な真似をするとは――
(マリーナさんとやる事が全く一緒だわ。どうして親子で揃ってそんな無茶な誓約を‥‥‥)
『屋敷のやつらめー、勝手なことをー!』
『身内びいきだー』
『僕らはあいつを近づける事に、いまだに反対してるのにー』
母国から付いてきた精霊たちは、自分たちに相談なく屋敷の精霊たちが勝手に誓約を交わした事が不満なようだ。
怒って文句をまき散らす彼らを宥めているうちに、レイザックが温室の入口に辿り着く。アイカは身を固くして寝床に伏せたまま様子を伺っていたが、彼は何故かその場でぴたりと立ち止まったまま、中に入って来ようとしない。
(どうしたのかしら?)
不思議に思って首を傾げていると、やや緊張をはらんだレイザックの声が聞こえて来た。
「アイカ嬢、そこにいるのだろう?」
(!)
呼びかけられて、そっと大きな葉の陰から顔を出して様子を伺うと、レイザックの端正な横顔が見えた。こちら側からはレイザックの姿が確認できるが、彼がいる位置からは木々の葉に上手く遮られて、彼女の姿は見えないはずだ。
実際、レイザックはあらぬ方向を見たままで話しかけている。アイカは深呼吸をして自分を落ち着かせると、あらためて彼を観察した。




