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第9話「産んでくれて」

その日は、朝から風が強かった。


店の前の細い路地を、乾いた葉が何度も行き来している。

空は晴れているのに、落ち着かない天気だった。

戸の隙間から入る風に、香炉の煙がいつもより早く揺れる。


晋一は棚の端に並んだ小箱の向きを直しながら、外の音を聞いていた。


「今日は、せわしないですね」

言うと、榊が帳場の奥でうなずいた。

「風の強い日は、落ち着かない方が増えます」

「天気のせいで」

「天気のせいにできるものは、まだ軽いのかもしれません」

晋一は苦笑した。

「それ、慰めになってるようで、なってないですね」

「慰めるために言っていませんから」

「正直だな」


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、五十代の女性だった。

痩せすぎてはいないが、どこか肉の落ちた顔をしている。

髪はきちんと整えられていて、紺色のコートも上質そうだった。

けれど、その整い方が、かえって疲れを隠しているように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は会釈をして、少し迷うように店内を見回した。

それから、決めたように椅子へ座る。


「こういうところは、初めてで」

「はい」

「何を頼めばいいのかも、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「言葉にならないもののために来る方も多いので」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「母が、亡くなりまして」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「四十九日が終わって」

女性は膝の上で指を組み直した。

「やっと少し、片づけを始めたんです」

「そうですか」

「そしたら、母のものがいろいろ出てきて」

そこで女性は、短く息をついた。

「何を見ても、腹が立つんです」


店の中の空気が、少しだけ変わった気がした。


女性は、自分で言った言葉に驚いたような顔をした。

こんなふうに言うつもりではなかったのかもしれない。


「腹が立つ」

榊が繰り返す。

「はい」

女性は少し笑った。

「ひどい娘ですよね」

「そうでしょうか」

「亡くなった母のことを、そんなふうに」

「そう思うのですね」

「思います」

女性は視線を落とした。

「でも、同時に」

そこで言葉が止まる。

喉の奥で、何かが引っかかっているようだった。


「かわいそうだとも思うんです」

やっと出てきた声は、少しかすれていた。

「母は、苦労した人でした」

「ええ」

「父は家にいないような人で、いても役に立たなくて」

「はい」

「母はずっと働いてました。私を育てるために」

女性はそこで、少し笑った。

「だから、感謝しなきゃいけないんです」

その“しなきゃ”が、妙に硬かった。

「でも」

榊は急かさない。

「でも、言えないんです」

「何を」

女性はしばらく黙っていた。

風が戸を小さく鳴らす。


「産んでくれて、ありがとう、って」


晋一はその言葉を聞いて、胸の奥が少し重くなるのを感じた。


ありがとうと言えないのは、感謝がないからではない。

感謝だけで済ませるには、残っているものが多すぎるのだ。


榊が香皿を引き寄せた。


「今日は、少し苦みのある香りにしましょう」

「苦み」

「甘いだけでは近づけない記憶もあります」


火が入る。

香りはすぐには広がらず、少し遅れて、乾いた木の奥にかすかな渋みを含んで立ちのぼった。

懐かしいのに、素直に懐かしいと言えない匂いだった。


女性は目を閉じた。


見えたのは、古い台所だった。


夕方の光が流し台の前だけを白くしている。

若い母親が、割烹着のようなものを着て、鍋をかき回している。

小さな女の子が、椅子に座ってその背中を見ている。


「お母さん」

女の子が呼ぶ。

「なに」

「今日、学校でね」

「あとで」

母親は振り向かない。

「今、忙しいから」


女の子は黙る。

その黙り方が、慣れていた。


場面が変わる。


熱を出して寝ている少女の額に、母親が濡れたタオルをのせる。

夜中に何度も起きて、水を飲ませる。

背中をさする。

その手つきはたしかにやさしい。

娘はそのぬくもりを覚えている。


また変わる。


小学校高学年くらいの娘が、母親に作文を見せている。

母親はざっと目を通して、「字、もう少し丁寧に書きなさい」と言う。

「内容は?」

娘が聞く。

「こういうのは、きれいに書かないとだめ」

娘は紙を引っ込める。

褒めてほしかった顔が、そのまま消える。


また変わる。


中学生になった娘が、居間で泣いている。

学校で何かあったらしい。

母親は向かいに座っているが、抱きしめたりはしない。


「泣いててもしょうがないでしょ」

娘は黙る。

「そんなことでいちいち傷ついてたら、この先やっていけないわよ」

「……」

「もっと大変な人はいくらでもいるんだから」


その言葉で、娘は泣きやむ。

慰められたからではない。

これ以上泣いても無駄だとわかったからだ。


また変わる。


高校生になった娘が、進路のことで言い争っている。


「私は、そっちに行きたい」

「だめよ」

「なんで」

「あなたのためを思って言ってるの」

「私のためって、いつもお母さんが決めるじゃない」

「親に向かって、その言い方は何」

「……」

「誰のおかげでここまで来たと思ってるの」


その言葉が、部屋の空気を変える。


誰のおかげで。


娘は何も言い返せなくなる。

学費を出してもらっている。

弁当も作ってもらっている。

風邪をひけば看病もしてもらう。

その事実がある限り、自分の苦しさはわがままみたいになる。


また場面が変わる。


成人した娘が、仕事帰りに実家へ寄る。

母親は食卓に煮物を並べながら、「ちゃんと食べてるの」と聞く。

娘が少し疲れた顔をしていると、「そんな顔してたら結婚できないわよ」と言う。

悪気がないのはわかる。

心配しているのもわかる。

でも、言われるたびに、胸のどこかが削れる。


「お母さん、そういう言い方やめて」

一度だけ、娘は言ったことがある。

すると母親は、箸を置いて言った。


「私はあなたのためを思って言ってるの」

「でも、嫌なんだよ」

「嫌って何」

「そうやって決めつけられるの」

「決めつけてないでしょ」

「してるよ」

「じゃあ何も言わなきゃいいの?」

母親の声が少し高くなる。

「心配しても文句、言わなくても文句」

「そういうことじゃなくて」

「あなたは昔からそう。してもらったことは忘れて、自分が嫌だったことばっかり覚えてる」


その言葉を、娘はずっと忘れられなかった。


してもらったことは忘れて。


忘れていない。

忘れていないから苦しいのだ。


母親がどれだけ働いていたかも知っている。

自分の服は後回しにして学費を出してくれたことも、

父が頼りにならないぶん、ひとりで踏ん張っていたことも知っている。

夜中に咳をすれば起きてきたことも、

好きなおかずを覚えていたことも、

自分が結婚に失敗したとき、何も聞かずに味噌汁を出してくれたことも覚えている。


覚えている。

その全部を覚えている。


だから、嫌だったことまでなかったことにしろと言われると、息が詰まる。


「見えますか」

榊の声が、静かに重なる。


女性は目を閉じたまま、小さくうなずいた。


「母は」

少し間を置いてから、言う。

「やさしい人だったんです」

「はい」

「でも、残酷でした」

晋一は思わず顔を上げた。

女性は続ける。

「殴られたとか、そういうことじゃないんです」

「ええ」

「でも、私が傷つく言い方を、平気でする人でした」

「……」

「しかも、本人は傷つけてるつもりがない」

その声には、長年乾かなかった怒りが混じっていた。

「だから、こっちも怒れないんです」

榊は黙って聞いている。

「悪い人じゃないから」

「はい」

「むしろ、立派な母親だったと思います」

「ええ」

「だから余計に、私が悪いみたいになる」


女性の目尻に、ようやく涙がにじんだ。


「母が死んだとき」

「はい」

「泣きました」

「ええ」

「ちゃんと悲しかった」

「はい」

「でも、ほっとしたんです」


その一言のあと、店の中がしんとした。


女性は、自分の口から出た言葉を、もう引っ込められないものとして見ているようだった。


「電話が来ないことに」

「……」

「急に呼び出されないことに」

「……」

「機嫌をうかがわなくていいことに」

女性はそこで、とうとう泣いた。

声を立てる泣き方ではなかった。

顔を崩さないまま、涙だけが落ちる。


「ほっとしたんです」

もう一度言う。

「母が死んで、ほっとした」

「……」

「そんな自分が、最低だと思いました」

榊は少しも表情を変えなかった。

「そうですか」

「最低でしょう」

「そう思うのですね」

「思いますよ」

女性は涙を拭きもせずに言う。

「なのに、ありがとうって言えない」

「ええ」

「産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとうって、言わなきゃいけない気がするのに」

「はい」

「言おうとすると、喉のところで」

女性は自分の首元に手を当てた。

「ここで、止まるんです」

「……」

「産んでほしいなんて頼んでない、って思ってしまうから」


晋一は息を止めた。


その言葉は強い。

強いのに、誰かを刺すためではなく、自分の中で腐らせてきたものがようやく外へ出た声だった。


女性は続ける。


「母が生きてるあいだは、こんなこと言えませんでした」

「ええ」

「死んでから言うなんて、卑怯ですよね」

「そうでしょうか」

榊の声は変わらない。

「相手がいなくなってからしか、見えないこともあります」

女性は唇を噛んだ。

「でも、感謝はしてるんです」

「はい」

「本当に」

「ええ」

「だけど、その感謝の中に、苦しかったことまで全部埋めろって言われたら」

そこで女性は、首を振った。

「無理です」

「……」

「無理なんです」


榊はそこで、初めて少しだけ深くうなずいた。


「分けられないのでしょう」

女性は顔を上げる。

「感謝と」

榊は香炉の煙を見ながら言う。

「傷ついた記憶が」

「……」

「どちらかだけにすることは、できないのだと思います」

女性の肩が小さく震えた。

「じゃあ、どうしたら」

「無理に、きれいな言葉にしなくていいのではありませんか」

「きれいな言葉に」

「はい。ありがとうだけで閉じなくてもいい」

女性は黙る。

榊は続ける。

「産んでくれてありがとう、と言えない自分ごと、そこに置くしかないこともあります」


その言葉を聞いたとき、女性の顔が少しだけ崩れた。

泣き顔というより、長く噛みしめていたものを、ようやく飲み込めないと認めた顔だった。


しばらくして、女性はぽつりと言った。


「母が入院していた最後のころ」

「はい」

「一度だけ、手を握られたんです」

榊は黙っている。

「何か言おうとしてた」

「……」

「でも、聞き取れなかった」

女性は目を開けた。

「ありがとう、だったのかもしれないし、違ったのかもしれない」

「ええ」

「私も、そのとき何も言えなかったんです」

「はい」

「ありがとう、も」

女性はそこで、息をついた。

「苦しかった、も」

「……」

「嫌いだった、も」


その最後の一言は、ほとんど音になっていなかった。


店の中に、風の音がかすかに届く。

外ではまだ、何かが落ち着かないまま動いている。


晋一は、その女性の横顔を見ながら、自分の母のことを思い出していた。


母にも、やさしかった記憶がある。

同時に、どうしても近づけなかった記憶もある。

家族への感情は、好きか嫌いか、感謝か恨みか、そんなふうには分けられない。

分けられないまま残るから、重いのだ。


「見えましたか」

榊が今度は晋一に聞くように言った。


晋一は少し遅れて、うなずいた。


「家族って」

晋一が言う。

「はい」

「きれいに片づかないですね」

「ええ」

「感謝してるなら、許してるはずだと思ってしまうし」

「はい」

「許せないなら、感謝なんて嘘みたいに思ってしまう」

榊は静かに湯呑みに湯を注いだ。

「どちらも本当、ということがあるのでしょう」

「……」

「人は、それを嫌います。曖昧ですから」

晋一は苦く笑った。

「曖昧なまま持つしかない」

「そういうこともあります」


女性は帰る前に、深く頭を下げた。


「来てよかったです」

「そうですか」

「ありがとうって言えない自分が、ひどいんだと思っていました」

榊は答える。

「ひどいかどうかは、急いで決めなくていいでしょう」

女性は少しだけ笑った。

泣いたあとの顔ではなかった。

泣いたことで、余計に疲れた人の顔だった。


戸が閉まり、風の音が少し遠くなる。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「産んでくれてありがとう、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「たぶん、すごく正しい言葉なんでしょうね」

「そうかもしれません」

「でも、正しいから言えるわけじゃない」

「ええ」

「正しい言葉の中に入らないものが、家族には多すぎる」


榊は湯呑みを晋一の前に置いた。

湯気は細く立ちのぼり、風もないのに途中で揺れた。


「言えなかったことがあるなら」

榊が言う。

「はい」

「言えなかったままの形で、持つしかないこともあります」

晋一は湯呑みに手を添えた。

熱が、少し遅れて掌に広がる。


ありがとうと言えないこと。

苦しかったと言い切れないこと。

嫌いだったと断じきれないこと。

どれも半端で、見苦しくて、でも本当なのだろうと思った。


店を出ると、風はまだやまなかった。

乾いた葉が足元をかすめていく。


晋一は空を見上げた。

雲は流れているのに、空の高さは変わらない。


家族のことを考えるとき、人はいつも少し子どもに戻るのかもしれない、とふと思う。

大人の言葉だけでは片づけられない場所が、どこまでも残る。


そのことを、今日は少しだけ認められた気がした。

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