第10話 「嫌い」
雨が降っていた。
朝からではない。
昼すぎから降り出した雨が、夜になっても細く続いている。
強くはないが、やむ気配もない。
店の軒先から落ちる雫が、一定の間隔で石畳を打っていた。
晋一は入口近くの棚を拭きながら、外を見ていた。
雨の日は、客足が少し鈍る。
けれど、こういう日に来る人は、晴れた日より少しだけ切実な顔をしていることが多い。
「今日は静かですね」
言うと、榊が香炉の灰をならしながら答えた。
「雨の音が、余計なものを隠しますから」
「来やすいってことですか」
「話しやすいのかもしれません」
晋一は小さくうなずいた。
戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。
入ってきたのは、四十代半ばくらいの男性だった。
背は高いが、少し猫背で、濡れた傘を持つ手に力が入っている。
スーツではなく、黒いジャケットにくたびれた鞄。
顔立ちは整っているのに、どこか疲れて見えた。
「いらっしゃいませ」
榊が声をかける。
男性は会釈をして、傘をたたみ、少し迷ってから椅子に座った。
座ってもなお、肩の力が抜けていない。
「こういう店は初めてで」
「はい」
「何を頼めばいいのか、よくわからないんですが」
「わからないままで構いません」
榊が言う。
「言葉の方が、先に来ることもあります」
男性はその言葉に、少しだけ苦く笑った。
「じゃあ、言葉で」
「はい」
「ずっと引っかかってる言葉があって」
「ええ」
「自分が言った言葉なんですけど」
そこで男性は、膝の上で手を組み直した。
「高校のときの友達に」
「はい」
「最後に、嫌いだ、って言ったんです」
晋一はその言葉に、わずかに目を上げた。
「それきりです」
男性は続ける。
「会ってません」
「そうですか」
「二十年以上」
「ええ」
「なのに、たまに夢に出るんです」
男性は少し笑った。
「今さらですよね」
「今さら、と思うのですね」
「思いますよ」
男性は視線を落とした。
「もう向こうは忘れてるかもしれないのに」
榊が香皿を引き寄せた。
「今日は、少し尖った香りにしましょう」
「尖った」
「やわらかくすると、見えなくなるものもあります」
火が入る。
香りはすぐに立った。
甘さはほとんどなく、乾いた木の奥に、少し金属みたいな冷たさが混じっている。
鼻に触れたあと、遅れて胸の奥に残る匂いだった。
男性は目を閉じた。
見えたのは、夕方の教室だった。
窓の外はオレンジ色で、部活帰りの声が遠くから聞こえる。
教室の後ろの席で、男子高校生がふたり、机を寄せて話している。
ひとりはよく笑う顔をしていて、もうひとりは少し無愛想だが、その無愛想さが気楽さでもある。
「おまえ、また赤点ぎりぎりじゃん」
「うるせえな」
「ノート貸してやるよ」
「最初からそう言えよ」
「態度でかいな」
笑いながら、自然に肩をぶつけ合う。
長い付き合いなのだと、見ているだけでわかる。
毎日一緒にいるわけではなくても、何かあれば最初に顔が浮かぶ相手。
そういう距離だった。
場面が変わる。
文化祭の準備で遅くなった帰り道。
コンビニの前で缶ジュースを飲みながら、将来の話をしている。
「おまえ、東京行くの」
「たぶん」
「へえ」
「そっちは?」
「まだわかんね」
「おまえ、そういうとこあるよな」
「何が」
「決めないままでも平気そうなとこ」
「平気じゃねえよ」
「見えないだけか」
その言い方に、男子高校生は少しだけ笑う。
見抜かれていることが、嫌ではない顔だった。
また場面が変わる。
冬の廊下。
空気が冷たい。
男子高校生が、教室の外でひとり立っている。
向こうから、親友が誰かと話しながら歩いてくる。
その顔は少し困っていて、でも笑ってごまかしている。
近づくにつれて、会話が聞こえる。
「いや、だから、あいつ最近ちょっと面倒で」
親友が言う。
「何でもこっちに言ってくるし」
一緒にいる相手が笑う。
「おまえ、好かれてんじゃん」
「いや、そういうのじゃなくて」
親友も笑う。
「なんか重いんだよな」
そこで、場面が止まった。
男子高校生は、その場で動けなくなる。
親友はまだ気づいていない。
ただ、気まずさをごまかすみたいに笑っている。
その笑い方が、ひどく遠く見えた。
悪口というほどではないのかもしれない。
今なら、そう思える。
困っていたのかもしれないし、照れ隠しだったのかもしれない。
その場の空気に合わせただけだったのかもしれない。
でも、そのときは違った。
裏切られた、と思った。
自分だけが近いと思っていたのかもしれない。
自分だけが、何でも言える相手だと思っていたのかもしれない。
そういう恥ずかしさが、一気に胸の奥へ流れ込んでくる。
場面がまた動く。
放課後の昇降口。
男子高校生が親友を待っている。
親友は来る。
少し驚いた顔をする。
「何」
「さっきの、聞いた」
「え?」
「面倒なんだろ」
親友の顔色が変わる。
「いや、あれは」
「重いんだろ」
「違うって」
「何が違うんだよ」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味だよ」
親友は何か言おうとする。
でも、うまく言葉にならない。
その一瞬の詰まりが、かえって決定打になる。
男子高校生の顔が、傷ついたまま固まる。
「もういい」
「よくないって」
「おまえのそういうとこ、ほんと無理だわ」
「……」
「嫌いだ」
言った瞬間、空気が変わる。
本当に言いたかったのは、そんなことじゃなかった。
傷ついた、と言いたかった。
そんなふうに見てたのか、と聞きたかった。
信じてたのに、と言いたかった。
冗談でも、ああいうふうに言ってほしくなかった、と言いたかった。
でも、先に出たのは、いちばん強くて、いちばん遠くへ押しやる言葉だった。
親友は何も言わなかった。
何か言おうとした顔だけして、結局、口を閉じた。
その沈黙を、男子高校生はさらに裏切りみたいに受け取る。
場面が切り替わる。
卒業式の日。
体育館の外は晴れている。
みんな写真を撮って、笑って、連絡先を交換している。
男子高校生は少し離れた場所から、親友の姿を見ている。
向こうも一度だけこちらを見る。
でも、来ない。
自分も行かない。
そのまま終わる。
終わらせたのは、自分だったのかもしれない。
あの日のうちに、言いすぎたとは思った。
でも、謝る方がもっと惨めな気がした。
傷ついたことを認めるみたいで、負けるみたいで、できなかった。
嫌いだったわけじゃない。
むしろ、たぶん、いちばん近かった。
近かったから、きつかった。
どうでもいい相手なら、腹も立たなかった。
近い相手に、ああいうふうに言われたから、恥ずかしかった。
頼っていたことも、信じていたことも、自分だけだったみたいで。
だから、先に切った。
嫌い、という言葉で。
「見えましたか」
榊の声で、男性は目を開けた。
目元が少し赤い。
「はい」
「どんな言葉でしたか」
男性は少し黙ってから、言った。
「嫌い、って」
「ええ」
「たぶん、あれ」
喉の奥で何かを押し出すみたいに続ける。
「嫌いって意味じゃなかったんです」
「はい」
「傷ついた、の方が近かった」
榊は黙っている。
「でも、そんなこと言えなかった」
「どうして」
男性は苦く笑った。
「だって、負けたみたいじゃないですか」
「負けた」
「向こうの一言で、こんなに傷つきましたって」
「ええ」
「そんなの、知られたくなかった」
榊は静かにうなずいた。
「強い言葉は」
「はい」
「弱いところを見せないために使われることがあります」
男性は目を伏せた。
「ほんと、子どもですよね」
「子どもだったのでしょう」
榊の声は淡々としている。
「高校生ですから」
男性は、少しだけ笑った。
その笑い方には、救われたような、余計に痛いような色が混じっていた。
「今さら、会っても仕方ないですよね」
男性が言う。
「そうでしょうか」
「二十年以上ですよ」
「ええ」
「向こうは覚えてないかもしれない」
「かもしれません」
「家庭もあるだろうし、急に連絡なんかしたら迷惑かもしれない」
榊は少しだけ首を傾けた。
「迷惑かどうかは、相手が決めることです」
男性は黙る。
「ただ」
榊は続ける。
「謝ることと、元に戻ることは、別です」
「……」
「戻らなくても、言い直すことはできるかもしれません」
男性はその言葉を、すぐには飲み込めない顔をしていた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「嫌いじゃなかった、って」
「はい」
「そんなこと、今さら言われても困りますよね」
「困るかもしれません」
榊はあっさり言う。
「でも、本当のことなのでしょう」
男性は目を閉じた。
「本当は」
少し息を吸う。
「寂しかったし、悔しかったし、恥ずかしかったんです」
「ええ」
「でも、そのどれも言えなくて」
「はい」
「嫌い、で済ませた」
雨の音が、少しだけ強くなった。
晋一はその音を聞きながら、自分の中にも似た言葉がいくつもある気がしていた。
別にいい。
もういい。
好きにすればいい。
そういう言葉の下に、本当は別の感情が沈んでいたことを、今さら思う。
男性は帰る前に、深く頭を下げた。
「来てよかったです」
「そうですか」
「嫌いって言葉のこと、ずっと、自分の性格の悪さだと思ってました」
榊は答える。
「悪さではなく、傷の形だったのかもしれません」
男性は少しだけ目を見開いて、それから小さく笑った。
「その言い方、ずるいですね」
「便利ですから」
そのやりとりに、晋一はほんの少しだけ口元をゆるめた。
戸が閉まり、雨音がまた店の外へ戻る。
晋一はしばらく黙っていた。
榊も何も言わない。
「嫌い、って」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「ずいぶん乱暴な言葉ですね」
「ええ」
「でも、乱暴な言葉の方が」
晋一は少し考える。
「本音を隠しやすいのかもしれない」
榊は香炉の灰を静かにならした。
「やわらかい本音は、傷つきやすいですから」
「……」
「むき出しでは出せないのでしょう」
晋一は湯呑みに手を伸ばした。
熱が、少し遅れて掌に伝わる。
自分もまた、本音を別の言葉で覆ってきたのだと思う。
平気なふり。
興味のないふり。
怒っていないふり。
あるいは、もうどうでもいいふり。
そうやって、言い直せなくなった言葉が、どれだけあるのだろう。
店を出ると、雨はまだ降っていた。
傘を開くと、布を打つ音が近くなる。
路地を歩きながら、晋一はふと思う。
本当に嫌いだったのなら、こんなに長く残らないのかもしれない。
長く残るのは、たぶん、嫌いでは片づかなかったものだ。
雨の向こうで、街の灯りが少し滲んで見えた。




