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第11話 「待ってる」

その日は、朝から空が曇っていた。


雨は降りそうで、降らない。

店の前の路地も、いつもより少し音が鈍い。

湿った風が、ときどき暖簾を揺らしていた。


晋一は棚の端に並んだ小箱を直しながら、外を見た。

こういう日は、時間が進むのが遅い。


「静かですね」

言うと、榊が帳場の奥でうなずいた。

「待っている日は、静かです」

「待ってる日って」

「来ないものを見ている日です」


晋一は少し笑った。

「最初からそういうこと言います?」

「違いましたか」

「違わないのが嫌なんですよ」


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、六十代くらいの女性だった。

細い人だった。

きちんとした服を着て、髪も整っているのに、どこか頼りなく見える。

立っているだけで、長く気を張ってきた人だとわかった。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

膝の上に置いた手が、少し落ち着かない。


「こういうところ、初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「言えなかったことがある方は、たいていそうおっしゃいます」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「息子のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう、長く帰ってきていなくて」

「そうですか」

「別に、何かあったわけじゃないんです」

女性は急ぐように言った。

「大きな喧嘩をしたとか、そういうんじゃなくて」

「はい」

「ただ、帰ってこなくなって」

そこで言葉が切れた。


榊は黙って待っている。


「最初は、忙しいんだろうと思ってたんです」

女性は言う。

「仕事もあるし、若いうちはいろいろあるし」

「ええ」

「でも」

少し笑う。笑ったというより、口元を整えたような顔だった。

「十年って、忙しいで済ませるには長いですよね」


晋一は何も言わなかった。


「連絡がないわけじゃないんです」

女性は続ける。

「たまに、短く来るんです。元気だよ、とか」

「はい」

「だから、余計に」

そこでまた止まる。

「……帰っておいで、って言えなかったんです」


「言えなかった」

榊が繰り返す。


「言ったら、嫌がられる気がして」

女性は視線を落とした。

「重いでしょう、そういうの」

「そう思ったのですね」

「母親に帰ってこいなんて言われたら」

女性は少し首を振った。

「面倒だろうなって」

「……」

「だから、言わない方がいいと思ってました」


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し遠い香りにしましょう」

「遠い」

「近づこうとすると、離れていくものもあります」


火が入る。

香りはすぐには立たなかった。

少し遅れて、乾いた草のような、古い布のような匂いが静かに広がる。

懐かしいのに、手を伸ばすと逃げるような香りだった。


女性は目を閉じた。


見えたのは、夕方の玄関だった。


小さな男の子が、ランドセルを背負ったまま「ただいま」と入ってくる。

母親が台所から顔を出す。

「おかえり」

その声には、何の迷いもない。


場面が変わる。


部活帰りの中学生が、少し遅く帰ってくる。

居間の灯りがついている。

食卓にはラップのかかった皿がある。

母親はうたた寝をしていて、玄関の音で目を覚ます。


「帰ったの」

「うん」

「ごはん温める?」

「自分でやる」

「そう」


それだけのやりとりなのに、家の中にちゃんと居場所がある。


また場面が変わる。


高校生になった息子が、父親と言い合っている。

何についてだったかは、もうはっきりしない。

進路だったか、働くことだったか、そんなことだ。


父親の声だけが残る。


「甘い」

「そんな考えじゃだめだ」

「現実を見ろ」


息子は黙らない。

でも、途中から、言い返しているというより、閉じていく顔になる。


母親は台所に立ったまま、それを聞いている。

止めた方がいいのか、黙っていた方がいいのか、わからない。

結局、何もしない。


その夜、息子にお茶を出したとき、

「お父さんも心配してるのよ」

と言った気がする。


息子は何も言わなかった。


何も言わなかった顔だけが残っている。


場面が変わる。


家を出る日の朝だった。


玄関に大きなバッグが置いてある。

母親は、何度も同じことを言う。


「忘れ物ない?」

「うん」

「ちゃんと食べるのよ」

「うん」

「体に気をつけて」

「うん」


本当は別のことを言いたかった気がする。

でも、何だったのか、そのときの自分でもちゃんとわかっていない。


息子は靴を履いて、振り向いて、

「じゃあ」

と言う。


母親は笑って、

「元気でね」

と返す。


そのあと、戸が閉まる。


閉まった戸を見ながら、何か言い忘れた気がした。

でも、そのときはまだ、次があると思っていた。


最初のうちは帰ってきた。


盆に一度。

正月に一度。

少し痩せたり、少し大人びたりしながら、「ただいま」と言った。

母親はそのたびに、好きだったものを多めに作った。

帰る日には、駅まで送った。


「また来なさい」

そう言いかけて、やめたことがある。


来なさい、は違う気がした。

帰ってきて、も違う気がした。

何が違うのかは、自分でもわからなかった。


そのうち、帰る回数が減った。


仕事が忙しいから。

休みが取れないから。

遠いから。


そうなんだろうと思った。

思うしかなかった。


夜、居間でひとりでスマートフォンを見る。

短い文を打つ。


元気にしてる?

消す。


たまには顔見せてね。

消す。


今年は帰るの?

それも消す。


指が止まる。


待ってる


そこまで打って、消す。


その言葉だけ、どうしても送れない。


待ってる、なんて。

そんなこと言ったら、帰ってこなきゃいけないみたいだ。

責めてるみたいだ。

重い。

母親の言葉は、たいてい重い。


だから結局、送るのはいつも同じになる。


無理しないでね。

体に気をつけて。


やさしい言葉のはずなのに、送ったあとで、何か違うと思う。


また場面が変わる。


夜の居間。

テレビはついているが、見ていない。

時計を見る。

スマートフォンを見る。

何も来ていない。


別に今日来るはずじゃない。

そう思う。

でも、どこかで待っている。


年末が近づくと、少し落ち着かなくなる。

帰ると言われても困るような気もするのに、

言われなければ、それはそれで胸のあたりが寒い。


待っていることを、誰にも言わない。

言うほどのことじゃない気がする。

言ったところで、どうにもならない。


ただ、待っている。


やがて、場面の奥に、息子の背中が見えた。


もう若くはない。

大人の男の背中だった。

こちらを振り向かないまま、遠くに立っている。


母親は、その背中に向かって何か言おうとする。


帰っておいで。


違う。


元気でいてね。


それも違う。


顔が見たい。


それも、少し違う。


喉の奥で、言葉が何度もつかえる。

それから、ようやく残る。


待ってる。


その一言だけだった。


ずっと、それを言いたかった気がする。

でも、言えなかった。

言えば、縛る気がした。

帰ってこないことを責めるみたいで、嫌だった。


それでも、言いたかった。


「見えましたか」


榊の声で、女性は目を開けた。

目元が少し濡れている。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


女性はすぐには答えなかった。

唇が少し震えている。


「待ってる、です」

やっと言う。

「たぶん、ずっと」

榊は黙っている。

「でも、そんなこと言ったら」

女性は息をついた。

「重いでしょう」

「そうかもしれません」

榊は言った。


女性は少し顔をこわばらせる。


「縛る言葉でもあります」

「……はい」

「帰ってこなければいけない、と聞こえることもあるでしょう」


女性は目を伏せた。

やっぱり、と思ったような顔だった。


しばらくして、榊が言う。


「ただ」

女性は顔を上げる。

「帰る場所を残す言葉でもあります」


それを聞いたあと、女性はすぐには何も言わなかった。

泣きもしない。

ただ、何かをのみこめないまま座っていた。


「息子は」

女性がぽつりと言う。

「家が、あまり好きじゃなかったかもしれません」

榊は黙っている。

「夫と、うまくいっていなかったから」

「……」

「私も、間に入れなかったし」

そこで言葉が切れる。

「だから、待ってるなんて言う資格、ないのかもしれないって」

榊は少しだけ首を振った。

「資格の話ではないのでしょう」

女性は目を閉じた。

「そうでしょうか」

「ええ」


また少し沈黙があった。


「今さら、言ってもいいんでしょうか」

女性が聞く。

「待ってる、って」

榊は答える。

「昔のままではなく、今の相手に届く言い方は考えた方がいいでしょう」

「……はい」

「ただ、待っていたことまで、なかったことにはしなくていい」


女性は小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「何を言いたかったのか、自分でもよくわかっていなかったので」

榊は何も足さなかった。


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。

外は相変わらず、降りそうで降らない空だった。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「待ってる、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「言われたら、重いって思うこともありますよね」

「ええ」

「でも、ないよりは」

そこで止まる。

榊は待つ。

晋一は湯呑みに手を伸ばした。


「……ないよりは、ましなのかもしれないですね」


榊は何も言わなかった。


店を出るころには、空気が少し冷えていた。

雨は結局、降らなかった。


路地を歩きながら、晋一はスマートフォンを取り出した。

連絡先を開く。

父の名前は、そこにある。


押せばつながる。

それだけのことが、妙に遠い。


しばらく見て、結局、画面を閉じた。


待っている側のことなんて、あまり考えたことがなかった。

帰らない理由なら、いくらでも知っている。

でも、待っている方も、言えないまま持っているものがあるのかもしれない。


そう思っただけで、今日は十分だった。


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