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第12話 「おかえり」

その日は、夕方から風が強かった。


店の前の細い路地を、乾いた紙くずが何度も転がっていく。

空は晴れているのに、どこか落ち着かない。

戸の隙間から入る風に、棚の端の値札がかすかに揺れていた。


晋一は、入口近くの小さな鉢植えを奥へ寄せた。

倒れそうというほどではないが、こういう日は何となく気になる。


「風、強いですね」

言うと、榊が帳場の奥でうなずいた。

「帰ってくるものがある日は、風が立つことがあります」

晋一は苦笑した。

「またそういうこと言う」

「違いましたか」

「まだ何も来てないでしょう」

「来てからでは遅いこともあります」


そのとき、戸口の鈴が鳴った。


入ってきたのは、四十代後半くらいの女性だった。

背は高くないが、姿勢がいい。

黒に近い紺のコートを着て、髪はきちんとまとめられている。

整った人だった。

けれど、その整い方が、少しだけ固く見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

膝の上に置いた手が、きれいに重なっている。

その指先だけが、少し力んでいた。


「こういうところ、初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「言えなかったことがある方は、たいていそうおっしゃいます」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「弟のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「長く、会っていなくて」

「そうですか」

「十年以上です」

女性は言った。

「生きていることは知っていました。人づてに」

「ええ」

「でも、連絡は取っていませんでした」

そこで少し間が空く。

「取れなかった、の方が近いかもしれません」


榊は黙って聞いている。


「弟は、家を出たんです」

女性は続ける。

「かなり急に」

「はい」

「父と揉めて」

その言い方だけで、だいたいのことはわかる気がした。

「もともと、うまくいっていなかったんです」

「ええ」

「私は間に入ることもできなくて」

女性は少し笑った。

「できなくて、というより、しなかったんでしょうね」

「……」

「面倒だったんです」

その言い方は、少しだけ自分を傷つける響きがあった。

「家の中が荒れるのが嫌で」

「はい」

「だから、黙っていました」


晋一は何も言わなかった。


「それで、弟は出ていって」

女性は視線を落とした。

「そのままです」

「そうですか」

「母が亡くなったとき、一度だけ戻ってきました」

榊がわずかに目を上げる。

「ええ」

「葬儀の日に」

女性はそこで、膝の上の指を組み直した。

「でも、そのとき」

少し息をつく。

「おかえり、って言えなかったんです」


店の中が、少しだけ静かになった気がした。


「言いたかったんですか」

榊が聞く。


女性はすぐには答えなかった。

それから、少し困ったように笑う。


「わかりません」

「……」

「言いたかったのか、言うべきだったのか」

「はい」

「たぶん、どっちもあったんだと思います」

女性は目を伏せた。

「でも、顔を見たら」

そこで止まる。

「腹が立ってしまって」


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し乾いた香りにしましょう」

「乾いた」

「湿っていると、戻れないことがあります」


火が入る。

香りは静かに立ちのぼった。

甘さはほとんどなく、乾いた木と紙の匂いが混じっている。

古い引き出しを開けたときみたいな、少し懐かしくて、少し息の詰まる香りだった。


女性は目を閉じた。


見えたのは、古い家の廊下だった。


まだ子どもの姉と弟が、廊下を走っている。

弟の方が少し背が低くて、よく笑う。

姉は「走らないの」と言いながら、結局いっしょに走っている。


場面が変わる。


夕方の台所。

母親が忙しそうにしている。

姉は宿題をしながら、弟の面倒を見ている。

「ちゃんと食べなさい」

「にんじん嫌い」

「だめ」

「姉ちゃんだって嫌いじゃん」

「私は食べるの」

そんなやりとりをしている。


また場面が変わる。


弟が高校生になっている。

父親と口論している。

何についてだったか、細かいことはもう曖昧だ。

進路だったか、働き方だったか、付き合っていた人のことだったか。

ただ、父親の声だけははっきり残っている。


「甘えるな」

「家にいるなら家のルールに従え」

「気に入らないなら出ていけ」


弟は黙らない。

でも、怒鳴り返しているうちに、だんだん顔つきが変わる。

怒っているというより、見切る顔になる。


姉は少し離れた場所で、それを見ている。

止めた方がいいのかもしれないと思う。

でも、口を開けば、自分まで巻き込まれる気がした。

父親の機嫌が悪くなるのも嫌だった。

だから、何も言わない。


弟が荷物をまとめている。

大きな鞄ではない。

本当に出ていくつもりなのか、まだ半信半疑で見ている自分がいる。


「ちょっと待ちなさいよ」

そう言えばよかったのかもしれない。

「今じゃなくてもいいでしょ」

そう言えたかもしれない。


でも、実際に出た言葉は違った。


「勝手にすれば」


弟は振り向いた。

その顔を、女性はまだ覚えている。

怒っていたわけではない。

呆れたような、諦めたような顔だった。


そのまま弟は出ていった。


場面が変わる。


母の葬儀の日だった。


久しぶりに見た弟は、少し痩せていた。

喪服が似合わないわけではないのに、家の中にいる姿がどこか不自然だった。

帰ってきた人、というより、呼ばれて一度だけ入ってきた人に見えた。


親戚が小さな声で話している。

父は必要なことしか言わない。

弟もほとんど口を開かない。


姉は何度か、声をかけようとする。


久しぶり。

来てくれてありがとう。

元気だった?


どれも違う気がした。


本当は、もっと先に言うべき言葉があったのかもしれない。


おかえり。


でも、その言葉が喉に引っかかる。


おかえり、なんて。

そんなふうに言ったら、何もなかったみたいだ。

勝手にいなくなって、母の最期にも間に合わなくて、

残された方がどんなふうだったかも知らないくせに。


寂しかった。

腹も立っていた。

ずるいと思った。

帰ってきた顔を見たら、その全部が先に立った。


だから、言えなかった。


弟は焼香を終えて、少しだけ姉の方を見る。

何か言うかと思った。

でも、言わない。

姉も言わない。


そのまま、また離れる。


場面が少し飛ぶ。


葬儀のあと、玄関先で弟が靴を履いている。

もう帰るのだとわかる。

引き止める理由はない。

引き止める言葉もない。


弟が小さく頭を下げる。

「じゃあ」

それだけ言う。


姉は、その背中に向かって何か言おうとする。


気をつけて。

また来て。

今度はもっと早く。


どれも違う。


喉の奥に残るのは、ひとつだけだった。


おかえり。


今さら、そんなことを言っても遅い。

遅いのに、それでも、その言葉だけが残る。


迎えたかったのだと思う。

許したかったわけではない。

何もなかったことにしたかったわけでもない。


ただ、帰ってきた人に向かって、

帰ってきたのだと認める言葉を、

ひとつ渡したかった。


でも、できなかった。


「見えましたか」


榊の声で、女性は目を開けた。

目元が少し赤い。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


女性はしばらく黙っていた。

それから、静かに言う。


「おかえり、です」

榊は黙っている。

「言えなかったんです」

「どうして」

女性は少し笑った。

「腹が立っていたから」

「……」

「寂しかったから、かもしれません」

そこで少し間が空く。

「たぶん、両方です」


榊は静かにうなずいた。


「迎える言葉は」

榊が言う。

「はい」

「許す言葉に似ています」

女性は目を伏せた。

「そうなんです」

「だから、言いにくいのでしょう」

「許したわけじゃないのに」

「ええ」

「何も解決していないのに」

「はい」

「それでも、帰ってきた相手に言うなら」

女性はそこで言葉を切った。

「おかえり、だった気がするんです」


しばらく沈黙があった。


「今さら、言ってもいいんでしょうか」

女性が聞く。

「弟に」

榊は少しだけ首を傾けた。

「昔の形のままでは、届かないかもしれません」

「……」

「ただ、迎えたかったことまで、なかったことにはしなくていい」


女性はその言葉に、小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「怒っていたんだと思っていました」

女性は少し笑った。

「それだけじゃなかったみたいです」


戸が閉まり、風の音が少し近くなる。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「おかえり、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「簡単な言葉なのに」

「ええ」

「ずいぶん、いろんなものが入りますね」


榊は香炉の灰を静かにならした。


「帰ってきたことを認める言葉ですから」

「……」

「認めるだけで、許すことになるように感じる人もいるのでしょう」


晋一は湯呑みに手を伸ばした。

熱が、少し遅れて掌に伝わる。


帰ってくる人がいる。

待っていた人がいる。

そのあいだには、言えなかった言葉がある。


帰る側の気持ちばかりを考えていた気がした。

帰ってきた相手に、何を渡せるか。

待っていた側が、どんな顔で立っているか。

そういうことを、あまり考えたことがなかった。


店を出るころには、風は少しだけ弱くなっていた。


路地を歩きながら、晋一はふと思う。


帰ってくることは、戻ることとは少し違うのかもしれない。

戻れなくても、迎える言葉だけはある。

その言葉を言えなかった人も、きっといる。


そのことが、今日は妙に胸に残った。


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