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第13話 「許して」

その日の店は、昼を過ぎても薄暗かった。


曇っているわけではない。

外にはちゃんと光があるのに、なぜか店の奥まで届かない。

入口から差し込む明るさが、途中で静かに止まっているように見えた。


晋一は棚の前で足を止めて、奥を見た。

前からそういうことはあった。

この店は、ときどき広さが変わるように感じる。

気のせいだと思えばそれまでだが、気のせいにしては何度もある。


「どうしました」

帳場の奥から榊が声をかける。


「いや」

晋一は視線を戻した。

「今日、ちょっと暗いですね」

榊はそれだけで何か察したようだったが、何も言わなかった。

「そういう日もあります」

「便利な言い方ですね」

「不便な説明よりは」


晋一は小さく息をついた。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、六十代後半くらいの男性だった。

背は高いが、ひどく痩せて見える。

上等ではないが、きちんとしたジャケットを着ている。

その整え方が、かえって所在なさを強くしていた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

座ってもなお、落ち着かない。

膝の上に置いた手が、何度も形を変える。


「こういう店は初めてで」

「はい」

「何を頼めばいいのか、よくわからないんですが」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「言えなかったことがある方は、たいていそうおっしゃいます」


男性は少しだけ苦く笑った。


「娘のことです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう、大人なんですが」

「はい」

「ずっと会っていません」

「そうですか」

「会えない、の方が近いかもしれない」


榊は黙って聞いている。


「若いころ」

男性は言った。

「家を出たんです」

そこで少し間が空く。

「妻と、娘を置いて」

店の中の空気が、わずかに沈んだ気がした。


「事情があった、なんて言うつもりはありません」

男性は続ける。

「言い訳になりますから」

「……」

「ただ、あのころは、自分のことしか見えていなかった」

視線を落とす。

「息が詰まるとか、やり直したいとか、そんなふうに思って」

「はい」

「それで、本当に出ていったんです」


晋一は何も言わなかった。


「最初のうちは」

男性は続ける。

「そのうち何とかなると思っていました」

「ええ」

「時間がたてば、少しはましになるとか」

「……」

「でも、そんなことはなかった」

そこで小さく笑う。

「当たり前ですよね」


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少し苦い香りにしましょう」

「苦い」

「飲み込めなかったものが残ることがあります」


火が入る。

香りはすぐに立った。

焦げる手前の木の匂いに、乾いた土のような重さが混じっている。

懐かしいというより、胸の奥に沈む香りだった。


男性は目を閉じた。


見えたのは、古いアパートの一室だった。


若い父親が、狭い部屋で黙って座っている。

流しには洗っていない皿がある。

小さな娘の声が、隣の部屋から聞こえる。

妻が何か言っているが、うまく聞き取れない。


父親は疲れていた。

仕事のせいなのか、生活のせいなのか、自分でもわからない。

ただ、何もかもが少しずつ重かった。


娘が駆けてくる。

まだ幼い。

「見て」と何かを差し出す。

父親はそれを見る。

たぶん絵だった。

笑ってやればよかったのに、うまくできない。


「あとでな」


娘は少しだけ口をとがらせる。

でも、すぐに母親の方へ戻っていく。


場面が変わる。


夜だった。

夫婦が言い争っている。

何がきっかけだったのか、もうはっきりしない。

金のことか、仕事のことか、家のことか。

たぶん、どれもだった。


「あなたはいつもそう」

妻が言う。

「都合が悪くなると黙る」

父親は何も言わない。

「この子のこと、ちゃんと見てる?」

「見てるよ」

「見てないでしょう」

「……」

「見てたら、そんな顔しない」


その言葉に、父親の顔が少しだけ動く。

怒ったのか、傷ついたのか、自分でもわからない顔だった。


また場面が変わる。


朝の玄関。

まだ娘は寝ている。

妻も起きていない。

父親は小さな鞄を持って立っている。


本当に出ていくつもりなのか、自分でも半分わかっていない。

ただ、このままここにいたら、何かが壊れる気がした。

もう壊れていたのかもしれない。


置き手紙を書こうとして、やめる。

何を書いても嘘になる気がした。


玄関に手をかける。

そのとき、奥の部屋から小さな寝息が聞こえる。


一度だけ、振り向く。


それでも、戻らない。


戸が閉まる。


その音だけが、妙にはっきり残った。


場面が飛ぶ。


何年もたっている。

父親は別の町で暮らしている。

仕事を変え、部屋を変え、名前のない時間だけが過ぎていく。

娘の年齢だけを、ときどき思い出す。

今ごろ何歳だろう。

学校は。

進学は。

成人式は。


考えるたびに、自分には関係のないことのようで、

それでも関係がないはずはなくて、

そのどちらにも居場所がない。


一度だけ、遠くから見たことがある。


駅前だった。

もう娘は大人になっていた。

隣に誰かいた気もする。

笑っていた。

その顔に、自分の知らない時間が全部乗っていた。


声はかけられなかった。


父親です、なんて。

今さら何を言うのか。

会いたかった、では足りない。

ごめん、でも足りない。


喉の奥に、別の言葉が引っかかる。


許して。


でも、その言葉は出せない。


許してほしいのは自分だ。

楽になりたいのも自分だ。

そんな言葉を渡された相手は、どうすればいいのだろう。


許すか、許さないか。

答えを持たされる。

そんな重いものを、今さら娘に渡していいのか。


だから、言えない。


言えないまま、年だけが過ぎる。


場面がまた変わる。


夜の部屋。

父親はひとりで座っている。

机の上には、何度も書きかけてやめた手紙がある。

ごめん。

元気ですか。

会いたい。

そのどれも違う。


本当に言いたいのは、もっと身勝手で、もっと重い。


許して。


許されたい。

そんなふうに思ってしまう。

思ってしまうこと自体が、また恥ずかしい。


許される資格なんてない。

それでも、願ってしまう。


その痛みだけが、ずっと消えない。


「見えましたか」


榊の声で、男性は目を開けた。

目元が少し赤い。


「はい」

「何を言えなかったのですか」


男性はすぐには答えなかった。

喉の奥で何かを押し戻しているようだった。


「許して、です」

やっと言う。

「でも」

そこで言葉が止まる。

「言えませんでした」

「どうして」

男性は苦く笑った。

「勝手だからです」

「……」

「そんなこと、娘に言う資格はない」

視線を落とす。

「許すかどうかを、向こうに押しつけることになる」

榊は静かにうなずいた。


「赦しを求めることは」

榊が言う。

「はい」

「相手に負担を渡すことでもあります」

男性は小さく息を吐いた。

「やっぱり」

「ええ」

「なら、なおさら」

「ただ」

榊は続ける。

「その言葉を言えなかったことと」

男性が顔を上げる。

「許されたいと思ったことは、別です」


しばらく沈黙があった。


「別、ですか」

「ええ」

「許されたいと思うほど、自分がしたことの重さを知っていた」

「……」

「その痛みまで、なかったことにはできません」


男性は何も言わなかった。

言い返せないというより、その言葉をどこに置けばいいのかわからない顔だった。


「許されるかどうかは」

榊が言う。

「相手のものです」

「はい」

「でも、許しを願うほどの痛みがあることは」

少し間を置く。

「あなたの中に残っていていい」


男性は目を閉じた。

泣くほどではない。

けれど、長く押し込めていたものの形を、初めて自分で触ったような顔だった。


「今さら、会いたいなんて」

男性がぽつりと言う。

「迷惑ですよね」

榊はすぐには答えなかった。

「迷惑かどうかは、相手が決めることでしょう」

「……」

「ただ、何を渡すかは考えた方がいい」

男性は小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「許して、なんて言えないと思っていました」

男性は少し笑った。

「今も言えません」

「ええ」

「でも、言えなかった理由が、少しわかった気がします」


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「許して、って」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「ずいぶん重いですね」

「ええ」

「ごめん、よりずっと」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「答えを求める言葉ですから」

「……」

「だから、簡単には使えないのでしょう」


晋一は湯呑みに手を伸ばした。

熱が、少し遅れて掌に伝わる。


謝るだけでは足りないことがある。

でも、許しを求めることは、また別の重さを相手に渡すことでもある。


言えばいいわけじゃない。

言わないから消えるわけでもない。


そのどちらでもない場所に、残る言葉があるのかもしれない。


ふと、店の奥に目をやる。

さっきより暗さが深くなっている気がした。

棚の向こう、壁のはずの場所に、ほんの一瞬だけ、奥行きのようなものが見えた気がする。


晋一は目を細める。

次の瞬間には、ただの影に戻っていた。


「……今」

言いかけると、榊が先に口を開いた。

「気のせいではないこともあります」

晋一はそちらを見る。

榊は帳場の奥で、いつもの顔をしていた。

「でも、今はまだ」

「まだ?」

「店の方が、見せたくないのでしょう」


晋一は何も言えなかった。


外はまだ明るいはずなのに、

店の奥だけが、静かに夜へ近づいているように見えた。


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