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第14話 「先に寝るね」

その日は、店の前を猫が横切った。


黒でも白でもない、雨に濡れた石みたいな色の猫だった。

昼すぎ、暖簾の影をするりと抜けて、路地の奥へ消えていく。

晋一はその背中を目で追ったが、すぐに見えなくなった。


「猫、いましたね」

言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。

「いましたか」

「見てないんですか」

「見なくても、通ることはあります」

晋一は少し笑った。

「便利ですね、その言い方」

「不便な説明よりはましです」


店の中は静かだった。

昼の光は入っているのに、どこかやわらかく曇って見える。

香木の箱や古い棚の角が、いつもより少しだけ丸く見えた。


戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。


入ってきたのは、五十代後半くらいの女性だった。

薄いベージュのコートを着て、髪は短く整えられている。

派手さはないが、きちんとした人だった。

ただ、そのきちんとさの奥に、長く崩さずに持ってきたものがあるように見えた。


「いらっしゃいませ」

榊が声をかける。


女性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。

膝の上に置いた鞄を、両手で軽く押さえている。


「こういうところ、初めてで」

「はい」

「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」

「わからないままで構いません」

榊が言う。

「残っている言葉の方が、先に見つかることもあります」


女性はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


「夫のことなんです」

晋一は手を止めた。

榊は静かにうなずく。

「もう、亡くなっていて」

「そうですか」

「三年前です」

女性は言った。

「病気とかではなくて」

そこで少し間が空く。

「朝、起きてこなかったんです」


店の中が、少しだけ静かになった気がした。


「前の晩まで、普通でした」

女性は続ける。

「本当に、いつも通りで」

「はい」

「だから、余計に」

そこで言葉が切れる。

「最後の言葉が、残ってしまって」


榊は黙って聞いている。


「大したことじゃないんです」

女性は少し困ったように笑った。

「喧嘩したとか、ひどいことを言ったとか、そういうんじゃない」

「ええ」

「ただ」

視線を落とす。

「先に寝るね、って言ったんです」

「……」

「私が」

そのあと、女性はしばらく黙っていた。


榊は香皿を引き寄せた。


「今日は、少しぬるい香りにしましょう」

「ぬるい」

「熱すぎると、日常は遠くなります」


火が入る。

香りはすぐには立たず、少し遅れて、やわらかい木の匂いが広がった。

洗いたてのタオルが乾いたあとのような、古い箪笥の引き出しを開けたときのような、生活の奥にしみこんだ香りだった。


女性は目を閉じた。


見えたのは、夜の台所だった。


流しには洗い終えた皿が伏せてある。

布巾がきちんとかけられている。

炊飯器の保温の灯りだけが、小さくついている。


居間ではテレビがついている。

夫がソファに座って、ニュースを見ている。

音量は少し小さい。

ちゃんと見ているのか、ただつけているだけなのか、よくわからない。


妻はマグカップをふたつ持ってくる。

ひとつを夫の前に置く。

「ありがとう」

夫が言う。

「熱いから気をつけて」

「うん」


それだけのやりとりが、何の引っかかりもなく流れていく。


場面が少し動く。


夫婦はもう若くない。

会話は多くない。

でも、少ないことに慣れている。

無理に埋めなくても、黙っていられる時間がある。


妻が洗濯物をたたみながら言う。

「明日、ゴミの日だから」

「うん」

「朝、出してくれる?」

「覚えてたら」

「覚えてて」

夫が少し笑う。

「善処します」

「信用ならないなあ」

そんなふうに言って、妻も少し笑う。


また場面が変わる。


休日の昼。

夫がベランダで鉢植えをいじっている。

たいして上手でもないのに、枯らしもしない。

妻は台所からその背中を見ている。

何年も同じような休日を過ごしてきたのだと思う。


特別なことはない。

旅行の思い出でも、劇的な喧嘩でもない。

ただ、同じ家の中で、同じ時間を重ねてきた。


また夜に戻る。


その晩も、特別なことは何もなかった。


夕飯を食べて、

食器を片づけて、

テレビを見て、

明日の天気の話を少しして。


夫が何か言った。

たぶん、明日は少し冷えるらしい、そんなことだった。

妻も何か返した。

内容はもう曖昧だ。


ただ、眠くなってきて、

先に寝室へ行こうとして、

振り向きもせずに言った。


「先に寝るね」


夫は居間から、

「うん」

と返した。


それだけだった。


それが最後になるなんて、思うはずがない。


場面は朝になる。


カーテンの隙間から光が入っている。

妻は先に起きて、顔を洗って、台所へ行く。

お湯を沸かす。

いつもの時間になっても、夫は起きてこない。


珍しいな、と思う。

疲れているのかもしれない。

そう思って、もう少しそのままにしておく。


でも、やっぱり遅い。

寝室へ行く。

声をかける。


返事がない。


肩に触れる。


冷たい、というほどではない。

でも、いつもの眠りとは違う。

その違いだけが、先にわかる。


そこから先のことは、あまりはっきりしない。


救急車。

電話。

近所の人の顔。

病院の白い壁。


ただ、その全部の手前に、

昨夜の自分の声だけが残っている。


先に寝るね。


もっと何か、別のことを言えばよかったのかもしれない。

そんなふうに思ったこともある。


ありがとう、とか。

おやすみ、とか。

明日ね、とか。


でも、たぶん違う。


本当に苦しいのは、

最後の言葉が特別じゃなかったことだ。


いつも通りだった。

何でもない夜の、

何でもない言葉だった。


だからこそ、そこから先が途切れたことを、

うまく受け止められない。


あまりに普通で、

あまりに続いていきそうな言葉だったから。


先に寝るね。


そのあとに、朝が来て、

また会話があって、

コーヒーを飲んで、

ゴミを出して、

そんなふうに続くはずだった。


続かなかったのは、言葉のせいじゃない。

わかっている。

でも、その言葉だけが、今も取り残されている。


「見えましたか」


榊の声で、女性は目を開けた。

目元は濡れていない。

けれど、何かを長く持ってきた人の顔をしていた。


「はい」

「何が残っていましたか」


女性は少し黙ってから言った。


「先に寝るね、です」

榊は黙っている。

「ずっと、ばかみたいだと思ってたんです」

「……」

「そんな言葉」

女性は少し笑った。

「もっと大事な言葉ならまだしも」

視線を落とす。

「何でもないでしょう」

「そうでしょうか」

榊が言う。


女性は顔を上げる。


「何でもない言葉は」

榊が続ける。

「何でもない明日が来ると思っているときにしか出ません」

女性は何も言わなかった。


「続くはずの時間の中にあった言葉なのでしょう」

「……」

「だから、残るのかもしれません」


女性は目を伏せた。

泣くわけではない。

ただ、その言葉をどこに置けばいいのか、少しだけわかったような顔だった。


「私」

女性がぽつりと言う。

「もっとちゃんとしたことを言えばよかったって、何度も思ったんです」

榊は黙っている。

「でも、今見たら」

少し息をつく。

「ちゃんとしてなかったから残った、のかもしれませんね」

「ええ」

「普通だったから」

「はい」


しばらく沈黙があった。


「今でも、ときどき」

女性が言う。

「寝る前に、言いそうになるんです」

「先に寝るね、と」

「はい」

少し笑う。

「誰もいないのに」

榊は静かにうなずいた。

「言葉は、相手がいなくなっても、しばらく居場所を探します」


女性はその言葉に、小さくうなずいた。


帰る前に、深く頭を下げる。


「来てよかったです」

「そうですか」

「大した言葉じゃないと思っていたので」

女性は少し笑った。

「そうでもなかったみたいです」


戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。


晋一はしばらく黙っていた。

榊も何も言わない。


「何でもない言葉の方が」

晋一がぽつりと言う。

「はい」

「残ること、あるんですね」

「ええ」

「大事なことを言えなかった、じゃなくて」

そこで少し考える。

「大事じゃないまま終わったことが、残るというか」

榊は香炉の灰を静かにならした。

「終わると知らなかったからでしょう」

「……」

「知らなかった言葉には、続きが残ります」


晋一は湯呑みに手を伸ばした。

熱が、少し遅れて掌に伝わる。


店の奥に目をやる。

今日は暗くない。

けれど、奥の棚の向こうに、誰かが立っていたような気がした。

気のせいだと思うには、少しだけ輪郭があった。


目を凝らす。

次の瞬間には、何もない。


「またですか」

榊が言う。


晋一はそちらを見る。

「見えてるんですか」

「見えているものもあります」

「何なんですか、この店」

榊は少しだけ目を伏せた。

「まだ、言葉の方が先です」

「意味わかんないんですけど」

「わからないままで構いません」


晋一はため息をついた。

でも、前ほど強くは言い返せなかった。


何でもない言葉が残る。

何でもない場所に、何かがいる。

そういうことが、この店では同じ棚の上に置かれている気がした。


外に出ると、空気は少し冷えていた。

夜はまだ浅い。


ふと、誰かに「先に寝るね」と言った夜のことを思い出そうとして、

すぐにやめた。

思い出せないくらい、ありふれた言葉なのだと思う。


でも、ありふれているからこそ、

失くしたあとで、急に重くなるのかもしれなかった。

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