第15話 「生きて」
その日は、朝から風がなかった。
店の前の木も、暖簾も、ぴたりと動かない。
空は晴れているのに、空気だけがどこか沈んでいた。
音が少ないというより、音が遠い。
店の中まで、何かが息をひそめているようだった。
晋一は入口近くの棚を拭きながら、外を見た。
昼すぎだというのに、時間が止まっているみたいだった。
「静かですね」
言うと、榊が帳場の奥で顔を上げた。
「言葉が止まる日は、こういう空気になります」
「またそういうこと言う」
「違いましたか」
「まだ誰も来てないでしょう」
「来る前から、残っていることもあります」
晋一は小さく息をついた。
戸口の鈴が鳴ったのは、その少しあとだった。
入ってきたのは、三十代前半くらいの男性だった。
痩せているというより、少し削れて見える。
黒いシャツに、くたびれた上着。
顔立ちは若いのに、目の下に長く眠れていない人の影があった。
「いらっしゃいませ」
榊が声をかける。
男性は会釈をして、勧められるまま椅子に座った。
座ってもなお、背中の力が抜けない。
膝の上で組んだ手が、何度かほどけては戻る。
「こういうところ、初めてで」
「はい」
「何をお願いしたらいいのか、よくわからないんですけど」
「わからないままで構いません」
榊が言う。
「言えなかったことがある方は、たいていそうおっしゃいます」
男性は少しだけ苦く笑った。
「友人のことです」
晋一は手を止めた。
榊は静かにうなずく。
「もう、会えません」
「そうですか」
「去年、亡くなりました」
男性は視線を落とした。
「自分で」
店の中の空気が、少しだけ深く沈んだ気がした。
榊は何も急がせない。
「ずっと、しんどそうだったんです」
男性は言う。
「仕事のこととか、家のこととか」
「はい」
「でも、あいつ、あんまりちゃんと言わないやつで」
少し笑う。笑ったというより、口元がそう動いただけだった。
「大丈夫って言うんです。いつも」
「ええ」
「全然、大丈夫じゃなかったのに」
晋一は何も言わなかった。
「何度か、変だと思ったことはありました」
男性は続ける。
「連絡が返ってこないとか、急に会わなくなるとか」
「……」
「でも、踏み込めなかった」
そこで言葉が止まる。
「生きて、って」
少し息を吸う。
「言えなかったんです」
榊は香皿を引き寄せた。
「今日は、少し細い香りにしましょう」
「細い」
「強くすると、届かないことがあります」
火が入る。
香りは静かに立った。
甘さはほとんどない。
乾いた草の先を指で裂いたときみたいな、かすかで、でも消えない匂いだった。
近づけばあるのに、つかもうとすると逃げるような香りだった。
男性は目を閉じた。
見えたのは、夜のコンビニの前だった。
若い男がふたり、缶コーヒーを持って立っている。
ひとりはよくしゃべる。
もうひとりは、笑って聞いている。
学生のころからの付き合いなのだと、見ているだけでわかる。
何でも話すわけではない。
でも、何かあれば顔が浮かぶ相手だった。
場面が変わる。
数年後。
居酒屋のテーブル。
友人は少し痩せている。
でも、笑うと昔と同じ顔になる。
「最近どう」
「まあまあ」
「ほんとかよ」
「ほんとほんと」
「顔、死んでるけど」
「失礼だな」
笑っている。
笑っているのに、どこか遅れている。
返事が半拍ずつ遅い。
気づいていたはずだった。
でも、その場では笑って流した。
また場面が変わる。
深夜のメッセージ画面。
友人から短い文が来ている。
ちょっとしんどいかも
それだけだった。
画面を見ながら、男性はしばらく考える。
何と返せばいいかわからない。
大丈夫?
は、たぶん違う。
頑張れ、はもっと違う。
話聞くよ、も、軽い気がした。
指が止まる。
生きて。
その言葉が、一瞬だけ浮かぶ。
でも、送れない。
そんなこと言ったら、追いつめる気がした。
生きろと言われることが、相手には命令みたいに聞こえるかもしれない。
苦しい人に向かって、正しいことを言うふりをして、
ただ自分が安心したいだけかもしれない。
だから、別の言葉を打つ。
無理すんなよ
また飯でも行こう
送る。
既読はつかない。
場面が飛ぶ。
数日後、電話が来る。
知らない番号だった。
出たときの相手の声は、今もはっきり思い出せない。
ただ、言われたことだけが残っている。
もう、遅かった。
そこから先のことは、ところどころしか残っていない。
駅までの道。
病院の白い壁。
うまく泣けなかったこと。
友人の家族に、何と言ったのか覚えていないこと。
ただ、その全部の手前に、
送れなかった一言だけが残っている。
生きて。
言えばよかったのか、今でもわからない。
言ったところで、何も変わらなかったかもしれない。
むしろ、傷つけたかもしれない。
でも、言わなかった。
言わなかったから届かなかった、とは言えない。
そんなふうに自分を大きくしたくはない。
あいつの苦しみは、そんな一言でどうにかなるものじゃなかった。
それでも。
それでも、願っていた。
生きていてほしかった。
明日もいてほしかった。
また会って、くだらない話をしてほしかった。
その願いだけは、本当だった。
場面がまた変わる。
葬儀のあと、夜の部屋。
男性はひとりでスマートフォンを見ている。
最後のやりとりが残っている。
ちょっとしんどいかも
無理すんなよ
また飯でも行こう
その短いやりとりの間に、
言えなかったことが、今も挟まったままになっている。
生きて。
そんなこと、言えるわけがないと思った。
言ってはいけない気もした。
苦しんでいる相手に、希望を押しつけるみたいで。
でも、本当は、
押しつけたかったんじゃない。
助けたかったわけでも、救いたかったわけでもない。
ただ、いなくならないでほしかった。
その願いを、言葉にできなかった。
「見えましたか」
榊の声で、男性は目を開けた。
目元は赤いが、泣き崩れるほどではない。
長く眠れない夜をいくつも越えてきた人の顔だった。
「はい」
「何を言えなかったのですか」
男性はすぐには答えなかった。
喉の奥で何かを押し戻しているようだった。
「生きて、です」
やっと言う。
「でも」
そこで言葉が止まる。
「そんなこと、言っていいのかわからなかった」
「どうして」
男性は視線を落とした。
「苦しいやつに向かって、言うことじゃない気がして」
「……」
「生きろ、って命令みたいじゃないですか」
少し息をつく。
「正しいことを言う側に立つのも、嫌だった」
榊は静かにうなずいた。
「願いは」
榊が言う。
「はい」
「ときどき、押しつけに似ます」
男性は小さく笑った。
「やっぱり」
「ええ」
「なら、言わなくてよかったんですかね」
榊はすぐには答えなかった。
「言えばよかった、とも」
少し間を置く。
「言わなくてよかった、とも、簡単には言えないのでしょう」
男性は黙る。
「ただ」
榊が続ける。
「生きていてほしかった、という願いまで」
男性が顔を上げる。
「間違いだったことにはしなくていい」
しばらく沈黙があった。
「……願っただけです」
男性がぽつりと言う。
「ええ」
「何もできなかった」
「そうかもしれません」
その言い方は冷たくなかった。
「でも、願っていた」
「……」
「それは、なかったことにはなりません」
男性は目を閉じた。
泣くわけではない。
けれど、ずっと責めていたものの形を、少しだけ別の角度から見たような顔だった。
「今でも」
男性が言う。
「たまに、あのメッセージを見返すんです」
「はい」
「何か違う返し方があったんじゃないかって」
榊は静かに答える。
「あるかもしれません」
「……」
「なかったかもしれません」
男性は苦く笑った。
「どっちですか」
「どちらでもあるのでしょう」
また少し沈黙があった。
「来てよかったです」
帰る前に、男性はそう言った。
「そうですか」
「言えなかったことが、正しかったのか間違ってたのか」
少し息をつく。
「それを決めたいわけじゃなかったのかもしれません」
榊は何も足さなかった。
戸が閉まり、店の中にまた静けさが戻る。
晋一はしばらく黙っていた。
榊も何も言わない。
「生きて、って」
晋一がぽつりと言う。
「はい」
「すごく強い言葉ですね」
「ええ」
「言えないのもわかるし」
そこで少し止まる。
「言いたくなるのも、わかる気がします」
榊は香炉の灰を静かにならした。
「届いてほしい願いほど」
「……」
「言葉にすると、形が変わることがあります」
晋一は湯呑みに手を伸ばした。
熱が、少し遅れて掌に伝わる。
店の奥に目をやる。
暗いわけではない。
でも、棚の向こうに、誰かが座っていたような気がした。
背中だけが見えた気がして、目を凝らす。
次の瞬間には、何もない。
「またですか」
榊が言う。
晋一はそちらを見る。
「最近、増えてません?」
「何がですか」
「そういうの」
榊は少しだけ目を伏せた。
「近づいているのかもしれません」
「何に」
「店の奥にあるものに」
晋一は眉をひそめた。
「前から思ってましたけど」
「はい」
「その言い方、わざとですよね」
「たぶん」
晋一はため息をついた。
でも、前ほど強くは言い返せなかった。
外に出ると、風はまだなかった。
空は晴れているのに、どこか息苦しい。
誰かに生きていてほしいと思うこと。
それを言葉にすること。
言葉にしないこと。
どちらが正しいかではなく、
そのあいだで立ち尽くすしかない夜があるのだと、
今日はそれだけが胸に残った。




